出家功徳(11)

しるべし、出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒をやぶらざるにはすぐれたり。帰仏かならず出家受戒すぐれたるべし。出家をすすむる果報、閻魔王(エンマオウ)にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝釈(タイシャク)にもすぐれたり。

知ることです、出家して禁戒を破っても、在家で戒を破らない人よりは勝れているのです。これは、仏に帰依するには出家受戒が最も勝れているということです。又、出家を勧める人の果報は、閻魔王よりも勝れ、輪王よりも勝れ、帝釈天よりも勝れているのです。

たとひ毘舎(ビシャ)、首陀羅(シュダラ)なれども、出家すれば刹利(セツリ)にもすぐるべし。なほ閻魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝釈にもすぐる。在家戒かくのごとくならず、ゆゑに出家すべし。

たとえ庶民や身分の低い者であっても、出家すれば王族よりも勝れているのです。さらに閻魔王よりも勝れ、輪王よりも勝れ、帝釈天よりも勝れているのです。在家の戒はそうではありません。ですから出家をしなさい。

しるべし、世尊の所説、はかるべからざるを。世尊および五百大阿羅漢、ひろくあつめたり。まことにしりぬ、仏法におきて道理あきらかなるべしといふこと。

知ることです、釈尊の説いた教えは推し量れないことを。そこで、世尊と五百人の大阿羅漢たちは教えを広く集めました。実にこれにより仏法の道理が明らかになったことが知られます。

一聖(イッショウ)、三明六通(サンミョウ ロクツウ)の智慧、なほ近代の凡師のはかるべきにあらず、いはんや五百の聖者をや。近代の凡師らがしらざるところをしり、みざるところをみ、きはめざるところをきはめたりといへども、凡師らがしれるところ、しらざるにあらず。しかあれば、凡師の黒闇愚鈍の説をもて、聖者三明の言に比類することなかれ。

一人の聖者の三明六通(物事を見通す三つの智慧と六つの力)の智慧でも、近頃の凡庸な師には推し量れるものではありません。まして五百人の聖者の智慧など考えも及ばないことでしょう。これらの聖者は、近頃の凡庸な師たちの知らないところを知り、見ていない所を見、究めていない所を究めてはいても、凡庸な師たちの知る所を知らないわけではありません。ですから、凡庸な師の暗愚な説を、智慧ある聖者の言葉と混同してはいけません。

婆沙(バシャ)一百二十に云(イワ)く、「発心(ホッシン)出家するすら、尚聖者と名づく、況や忍法を得んをや。」 しるべし、発心出家すれば聖者となづくるなり。

毘婆沙論(ビバシャロン)一百二十に説かれています。
「仏道に発心出家するだけで聖者と呼ぶ、まして無生の悟りを得た者はなおさらである。」と。
知ることです、発心出家すれば聖者と呼ぶのです。

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