出家功徳(14)

仏の言(ノタマ)はく、「夫れ出家者は、まさに悪を起こすべからず。若し悪を起こさば、則(スナワチ)出家に非ず。出家の人は、身口相応すべし。若し相応せざれば、則 出家に非ず。

釈尊が言うことには、「そもそも出家者は、悪心を起こしてはいけない。もし悪心を起こせば、それは出家とは言えない。また出家の人は、言行が一致していなければいけない。もし一致していなければ、それは出家とは言えない。

我 父母 兄弟 妻子 眷属(ケンゾク)知識を棄てて、出家修道す。正に是 諸の善覚(ゼンガク)を修集する時なり。是 不善覚を修集する時に非ず。

私は父母や兄弟 妻子、親戚 知人を棄てて出家修道したが、この時に、多くの善心を修めたのであって、悪心を修めたのではない。

善覚とは、一切衆生を憐愍(レンミン)すること、猶(ナオ)赤子(シャクシ)の如し。不善覚とは、此れと相違す。」

善心とは、すべての衆生を赤子のように慈しむことである。悪心とは、これと相反することである。」と。

それ出家の自性は、憐愍一切衆生、猶如赤子なり。これすなはち不起悪なり、身口相応なり。その儀すでに出家なるがごときは、その徳いまかくのごとし。

このように、そもそも出家の本性とは、すべての衆生を赤子のように慈しむことです。これがつまり悪心を起こさないことであり、言行が一致していることなのです。すでに出家の身であれば、その修めるべき徳行とはこの通りです。

仏の言はく、「復次に舎利弗、菩薩摩訶薩(ボサツ マカサツ)、若し出家の日、即ち阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラ サンミャク サンボダイ)を成じ、即ち是の日 法輪を転じ、転法輪の時、無量阿僧祇(ムリョウ アソウギ)の衆生、遠塵離垢(オンジン リク)し、諸法の中に於いて、法眼浄(ホウゲンジョウ)を得、

釈尊が言うことには、「また舎利弗や菩薩たちよ、もし出家の日に阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を成就し、その日に人々のために法を説き、それによって無数の人々が煩悩を離れて、すべての物事の中に真実を見る眼を得、

無量阿僧祇の衆生、一切法不受を得るが故に、諸漏(ショロ)の心解脱を得、無量阿僧祇の衆生、阿耨多羅三藐三菩提に於いて、不退転を得んと欲はば、当に般若波羅蜜(ハンニャ ハラミツ)を学すべし。」

また無数の人々が、すべての物事に捕らわれない心を得て、さまざまな煩悩から解脱することを得、そして無数の人々が、阿耨多羅三藐三菩提に安住して退かないことを願うならば、まさに般若波羅蜜(悟りの智慧)を学びなさい。」と。

いはゆる学般若菩薩(ガクハンニャ ボサツ)とは、祖祖なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成就するなり。

いわゆる般若(智慧)を学ぶ菩薩とは歴代の祖師のことです。そうではありますが、阿耨多羅三藐三菩提は、必ず出家したその日に成就するのです。

しかあれども、三阿僧祇劫(サン アソウギコウ)に修証し、無量阿僧祇劫に修証するに、有辺無辺(ウヘン ムヘン)に染汚(ゼンナ)するにあらず。学人しるべし。

しかし、菩薩が三阿僧祇劫、無量阿僧祇劫という長い間 修行するのは、迷いや悟りの有無に囚われているからではありません。仏道を学ぶ人はこのことを知りなさい。

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