出家功徳(17)

それ諸仏の法にあふたてまつりて出家するは、最第一の勝果報なり。その法すなわち我のためにあらず、我所のためにあらず、身心のためにあらず、身心の出家するにあらず。出家の我我所にあらざる道理かくのごとし。

そもそも諸仏の法に出会って出家できることは、最高の果報なのです。出家の法は、私のためでなく、私の所有物のためでなく、この身や心のためでなく、身や心が出家するのでもありません。提多迦の言う、出家が私や私の所有物のためではない道理とはこの通りです。

我我所にあらざれば、諸仏の法なるべし。ただこれ諸仏の常法なり。諸仏の常法なるがゆゑに、我我所にあらず、身心にあらざるなり。三界のかたをひとしくするところにあらず。かくのごとくなるがゆゑに、出家これ最上の法なり。

出家が私や私の所有物のためでなければ、それは諸仏の法です。もっぱらこれが諸仏の不変の法なのです。諸仏の不変の法なので、私や私の所有物のためでなく、身や心のためでもないのです。世間でこの法と肩を並べるものはありません。このような理由で出家は最上の法と言うのです。

頓にあらず、漸(ゼン)にあらず。常にあらず、無常にあらず、来にあらず、去にあらず、住にあらず、(行)(ギョウ)にあらず、広にあらず、狭にあらず、大にあらず、小にあらず。作(サ)にあらず、無作(ムサ)にあらず。

諸仏の法は、すぐ悟るものでも次第に悟るものでもなく、恒常なものでも無常なものでもなく、来るものでも去るものでもなく、止まるものでも行くものでもなく、広いものでも狭いものでもなく、大きいものでも小さいものでもなく、働きのあるものでも働きのないものでもありません。

仏法単伝の祖師、かならず出家受戒せずといふことなし。いまの提多迦(ダイタカ)、はじめて優婆毱多尊者(ウバキクタ ソンジャ)にあふたてまつりて出家をもとむる道理、かくのごとし。出家受具し、優婆毱多に参学し、つひに第五の祖師となれり。

このようにして、仏法相伝の祖師方は、必ず出家受戒しました。この提多迦が、初めて優婆毱多尊者にお会いして出家を願ったことも同様です。そして出家受戒し、優婆毱多尊者に学んで、ついに釈尊から第五代目の祖師となりました。

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