出家功徳(20)

盤山(バンザン)宝積禅師(ホウシャク ゼンジ)曰く、「禅徳 可中(モシ)学道するならば、地の山を擎(ササ)げて、山の孤峻(コシュン)を知らざるに似、石の玉を含んで、玉の瑕無きを知らざるが如くすべし。若し是(カク)の如くならば、是(コレ)を出家と名づく。」

盤山宝積禅師が言うことには、「参禅の大徳諸君、もし仏道を学ぶのなら、大地が山を支えながら、その高くそびえていることを知らずにいるように、又 石が宝玉を含みながら、それに瑕が無いことを知らずにいるようにして修行しなさい。もしそのようであれば、この者を出家と呼ぶことができる。」と。

仏祖の正法かならずしも知不知にかかはれず。出家は仏祖の正法なるがゆゑに、その功徳あきらかなり。

このように、仏祖の正法は必ずしも知る知らないに係わりません。出家は仏祖の正法なので、その功徳は明白なのです。

鎮州(チンシュウ)臨済院(リンザイ イン)義玄禅師(ギゲン ゼンジ)曰く、「夫れ出家は、須らく平常真正(ビョウジョウ シンショウ)の見解(ケンゲ)を辨得(ベントク)し、辨仏、辨魔、辨真、辨偽、辨凡、辨聖(ベンショウ)すべし。若し是の如く辨得せば、真の出家と名づく。

鎮州の臨済院 義玄禅師が言うことには、「そもそも出家者は、必ず平常が真実であるという見解を会得して、仏を見分け、魔を見分け、真実を見分け、虚偽を見分け、凡夫を見分け、聖人を見分けなければならない。もしこのように見分けることが出来れば、真の出家と呼ぶことができる。

若し魔仏辨ぜざれば、正に是 一家を出でて一家に入るなり、喚んで造業(ゾウゴウ)の衆生と作(ナ)す。未だ名づけて真正の出家と為すことを得ず。」

もし魔と仏を見分けられなければ、まさに家宅を出てまた家宅に入ることになろう。このような人を業をつくる衆生と言うのである。それでは真の出家と呼ぶことは出来ない。」と。

いはゆる平常真正見解といふは、深信因果(ジンシン インガ)、深信三宝(ジンシン サンボウ)等なり。辨仏といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり、真偽凡聖をあきらかに辨肯(ベンコウ)するなり。もし魔仏をあきらめざれば、学道を阻壊(ソエ)し、学道を退転するなり。

いわゆる「平常が真実であるという見解」とは、深く因果の道理を信ずることであり、深く三宝(仏と法と僧)を信ずること等です。又 仏を見分けるとは、仏になる修行の中で、本来成仏の功徳を念ずることであることは明らかです。それで真実、虚偽、凡夫、聖人を明白に見分け知るのです。もし魔と仏を明らかにしなければ、学道は阻害されて修行を退くことのなるでしょう。

魔事を覚知してその事にしたがはざれば、辨道不退なり。これを真正出家の法とす。いたづらに魔事を仏法とおもふものおほし、近世の非なり。学者はやく魔をしり、仏をあきらめ修証(シュショウ)すべし。

魔を知ってそれに従わなければ、仏道修行を退くことはないのです。これが真の出家の法なのです。徒に魔を仏法と思う者が多いことは、近頃の誤れるところです。仏道を学ぶ者は早く魔を知り、仏を明らかにして修行しなさい。

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