出家功徳(4)

(マタ)次に、仏 祇園(ギオン)に在(マシマ)すが如き、一(ヒト)りの酔婆羅門(スイ バラモン)有って、来りて仏の所(ミモト)に到り、比丘(ビク)と作(ナ)らんことを求む。仏 阿難(アナン)に勅(チョク)して、剃頭(テイヅ)を与え法衣を著(キ)せしむ。

また次に、仏(釈尊)が祇園精舎にまします時に、一人の酔った婆羅門が仏の所にやって来て、僧になりたいと願い出た。そこで仏は、阿難に命じて婆羅門の髪を剃り、僧の衣を着せてあげた。

酔酒既に醒めて、己が身忽(タチマチ)に比丘(ビク)と為ることを驚怪して、即便(スナワ)ち走り去りぬ。諸の比丘、仏に問ひたてまつらく、「何を以てか、此の婆羅門を聴(ユル)して、比丘と作(ナ)したまふ。」

その婆羅門は酔いが醒めると、自分の姿が突然 僧に変わっていることに驚いて 走り去ってしまった。それを見た仏の弟子たちは、仏にお尋ねした。「世尊は、なぜこのような婆羅門を受け入れて僧にされたのでしょうか。」

仏 言(ノタマワ)く、「此の婆羅門は、無量劫(ムリョウゴウ)の中に初めより出家の心無し。今 酔に因るが故に、暫く微心を発す。此の因縁を以ての故に、後に当に出家得道すべし。」

仏の言うことには、「この婆羅門は、遠い昔から出家の心など起こしたことは無かったが、今 酔ったことで、ほんの少しだけその心を起こしたのだ。彼は帰ってしまったが、僧になったこの因縁によって、後にはきっと本当に出家して 仏道を悟ることであろう。」と。

(カク)の如くの種々の因縁ありて、出家の功徳無量なり。是(コレ)を以て白衣(ビャクエ)に五戒有りと雖も、出家には如(シ)かず。

このような様々な因縁にあるように、出家の功徳は無量なのである。これによって在家には五戒があるが、それは出家の戒に及ばないと言うのである。」 と龍樹菩薩は説いている。

世尊すでに酔婆羅門に出家受戒を聴許(チョウキョ)し、得道最初の下種(ゲシュ)とせしめまします。あきらかにしりぬ、むかしよりいまだ出家の功徳なからん衆生、ながく仏果菩提うべからず。

ここに説かれているように、世尊は酔った婆羅門の出家の願いを聞き入れて、仏道を悟るための最初の因縁を授けたのです。このことから明らかに理解されることは、過去に於いて、まだ出家の功徳を受けたことが無い人々は、長い間 仏の悟りを得ることが無いということです。

この婆羅門、わづかに酔酒のゆゑに、しばらく微心をおこして剃頭受戒し、比丘となれり。酔酒さめざるあいだ、いくばくにあらざれども、この功徳を保護して、得道の善根を増長すべきむね、これ世尊 誠諦(ジョウタイ)の金言(キンゴン)なり、如来出世の本懐(ホンカイ)なり。一切衆生あきらかに已今当(イコントウ)のなかに、信受奉行(シンジュ ブギョウ)したてまつるべし。

この婆羅門は酒に酔うことで、やっとほんの少しだけ出家の心を起こし、髪を剃り落して僧になりました。酔いの醒めない間は、いくらもなかったけれども、この婆羅門の出家の功徳を保護して、仏道を悟る善根を増長すべきであるという趣旨は、世尊の真実の言葉であり、世尊が世に出られた本懐でもあるのです。ですから、このことをすべての人々ははっきりと心得て、過去現在未来にわたって信じ、実行して行きなさい。

まことにその発心(ホッシン)得道、さだめて刹那(セツナ)よりするものなり。この婆羅門、しばらくの出家の功徳なほかくのごとし。いかにいはんや、いま人間一生の寿者命者(ジュシャ ミョウシャ)をめぐらして出家受戒せん功徳、さらに酔婆羅門よりも劣ならめやは。

実に、仏道を発心し悟ることは、必ず刹那からするものです。この婆羅門の少しの間の出家の功徳でさえ、このように大きいのです。まして今、人間一生の寿命をめぐらして出家受戒した功徳は、決して酒に酔った婆羅門より劣ることはないでしょう。

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