供養諸仏(13)

(くようしょぶつ)

法華経(ホケキョウ)に云(イハ)く、
「若
(モ)し人、塔廟(トウビョウ)宝像(ホウゾウ)及び画像に於て、華香(ケコウ)幡蓋(バンガイ)を以て敬心(キョウシン)にして供養し、若しは人をして楽(ガク)を作(ナ)さしめて、鼓(ク)を撃ち、角貝(カクバイ)を吹き、簫(ショウ)(テキ)(キン)箜篌(クゴ)琵琶(ビワ)(ニョウ)銅鈸(ドウハツ)、是の如くの衆妙(シュミョウ)の音、尽く持ちて以て供養し、或は歓喜(カンギ)の心を以て、歌唄(カバイ)して仏徳を頌(ジュ)し、乃至(ナイシ)一小音せん、皆 已(スデ)に仏道を成ぜり。

法華経には、このように説かれています。
「もし人が、仏塔や仏像 仏画などを、花や香 衣笠などで恭しく供養したり、もしくは人に音楽を奏でさせて、鼓を打ったり角貝を吹いたりして、簫、笛、琴、箜篌、琵琶、鐃、銅鈸などの様々な楽器の美しい音色で供養したり、或は喜んで仏徳を讃える歌を歌うなどして、たとえ小さな音一つでも供養したならば、その人達は皆、既に仏道を成就しているのである。

若し人、散乱の心にして、乃至一華を以て画像を供養せんも、漸(ヨウヤク)く無数(ムシュ)の仏を見たてまつらん。

もし人が、乱れた心で、ただ一つの花で仏画を供養しても、その人は次第に無数の仏を見ることであろう。

或は人有りて礼拝(ライハイ)し、或は復た但だ合掌し、乃至一手を挙げ、或は復た少しく低頭(テイヅ)して、此れを以て像を供養せんも、漸く無量の仏を見たてまつり、自ら無上道を成じて、広く無数の衆を度(ド)せん。」

或は、ある人は礼拝して、或はただ合掌して、又は片手を挙げて、或は又少し頭を下げて、これによって仏像を供養しても、その人達は次第に無量の仏を見て、自ら無上の仏道を成就し、広く無数の衆生を済度することであろう。」と。

これすなはち、三世諸仏の頂〇(チョウネイ)なり、眼睛(ガンゼイ)なり。見賢思斉(ケンケンシセイ)の猛利精進(ミョウリショウジン)すべし、いたづらに光陰をわたることなかれ。石頭無際大師(セキトウムサイダイシ)云く、「光陰虚(ムナ)しく度(ワタ)ること莫(ナカ)れ。」

これは、過去 現在 未来の仏達の頭や眼とも言うべき肝要の教えです。ですから、先賢を慕って勇猛精進しなさい。徒らに時を過ごしてはいけません。石頭無際大師(石頭希遷)も、「月日を空しく過ごしてはいけない。」と戒めています。

かくのごときの功徳、みな成仏す。過去 現在 未来おなじかるべし。さらに二あり三あるべからず。供養仏の因によりて、作仏(サブツ)の果を成ずること、かくのごとし。

このような供養の功徳によって、皆が仏となることは、過去 現在 未来でも同じなのです。仏となる方法が、決して二つあるわけでも三つあるわけでもありません。仏を供養する因によって、仏となるという果が得られることは、ここに説かれている通りなのです。

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