辨道話(2)

(ヨ)、発心求法(ホッシン グホウ)よりこのかた、わが朝(チョウ)の遍方(ヘンポウ)に知識をとぶらひき。ちなみに建仁(ケンニン)の全公(ゼンコウ)をみる。あひしたがふ霜華(ソウカ)すみやかに九廻(クカイ)をへたり。いささか臨済(リンザイ)の家風をきく。

私は、発心(ホッシン)して仏法を求めてから此の方、我が国の各地に善知識(仏道の善き師)を訪ねました。縁故によって建仁寺(ケンニンジ)の明全(ミョウゼン)和尚様に会い、付き従う年月は速くも九年を経ました。この時、ほんの少し臨済宗(リンザイシュウ)の家風を聞くことが出来ました。

全公は祖師 西和尚(サイオショウ)の上足(ジョウソク)として、ひとり無上の仏法を正伝(ショウデン)せり。あへて余輩(ヨハイ)のならぶべきにあらず。

明全和尚様は、祖師 栄西(エイサイ)和尚の高弟として、ただ一人無上の仏法を正しく伝えた人であり、まったく我々の及ぶような人ではありません。

(ヨ)、かさねて大宋国(ダイソウゴク)におもむき、知識を両浙(リョウセツ)にとぶらひ、家風を五門にきく。つひに太白峰(タイハクホウ)の浄禅師(ジョウゼンジ)に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ。

私は、更に大宋国に赴き、浙江省(セッコウショウ)の東西の善知識を訪れて、禅の五門の家風を尋ねました。そしてついに、太白峰(天童山景徳禅寺)の如浄(ニョジョウ)禅師に参じて、この一生に学ぶべき仏道を悟ることが出来たのです。

それよりのち、大宋 紹定(ジョウテイ)のはじめ、本郷にかへりし、すなはち弘法(グホウ)求生(グショウ)をおもひとせり。なほ重担(ジュウタン)をかたにおけるがごとし。

その後、大宋国 紹定の年の初めに郷里に帰りました。その時は、仏法を広め人々を救うことを願いとして、それは重い荷を担ぐような気持ちでした。

しかあるに、弘通(グツウ)のこころを放下(ホウゲ)せん、激揚(ゲキヨウ)のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄(ウンユウ ヒョウキ)して、まさに先哲の風をきこえんとす。ただし、おのづから名利(ミョウリ)にかかはらず、道念をさきとせん真実の参学あらんか。

しかし、今は仏法を広める心を打ち捨てようと思う。仏法を激しく興す時機を待つためです。暫くは雲や浮草のように居所を定めず、まさに先哲の家風に倣おうと思う。ただし、まれに名利にかかわることなく、道心を第一とする真実の修行者もいることでしょう。

いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解(ショウゲ)をおほひ、むなしく自狂にゑふて、ひさしく迷郷にしづまん、なにによりてか般若(ハンニャ)の正種(ショウシュ)を長じ、得道(トクドウ)の時をえん。

その者が、いたずらに邪師に惑わされて妄りに正しい理解を覆い隠し、空しく自分の狂惑に酔って、久しく迷郷に沈むことになれば、この者はいったい何によって般若(悟りの智慧)の正法の種を成長させ、仏道を会得する時を得たらよいのでしょうか。

貧道(ヒンドウ)はいま雲遊萍寄をこととすれば、いづれの山川(サンセン)をかとぶらはん。

しかし私は今、雲や浮草のように居所の定まらぬ身なので、私を訪ねようにも、どこの山や川を訪ねればよいか分らないことでしょう。

これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞(ケンモン)し、知識の玄旨を稟持(ボンジ)せしを、しるしあつめて、参学閑道の人にのこして、仏家の正法(ショウボウ)をしらしめんとす。これ真訣(シンケツ)ならんかも。

これを哀れに思うので、私が目の当たり大宋国で見聞した禅道場の規則や、受け伝えてきた善知識の深い宗旨などを集めて記し、仏道を参学する人に残して仏家の正法を知らせようと思うのです。これは仏道の秘訣なのです。

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