辨道話(13)

「又まのあたり大宋国にしてみしかば、諸方の禅院みな坐禅堂をかまへて、五百六百、および一二千僧を安じて、日夜に坐禅をすすめき。

「又、私が直接 大宋国で見たのは、諸方の禅院が皆 坐禅堂を建て、五百人六百人また千人二千人の僧をおいて、日夜に坐禅を勧めていたことです。

その席主とせる伝仏心印の宗匠(シュウショウ)に、仏法の大意(タイイ)をとぶらひしかば、修証(シュショウ)の両段にあらぬむねをきこえき。

その道場の主となっている仏の悟りを伝える宗匠に、仏法の根本を尋ねたところ、修行と悟りは二つではないという教えを聞きました。

このゆゑに、門下の参学のみにあらず、求法(グホウ)の高流(コウル)、仏法のなかに真実をねがはん人、初心後心をえらばず、凡人聖人を論ぜず、仏祖のをしへにより、宗匠の道をおふて、坐禅辨道すべしとすすむ。

このために、仏祖門下の修行者だけでなく、仏法を求める優れた人々や、仏法の中に真実を求める人々、初心や古参を選ばず、凡人聖人を論ぜず、皆仏祖の教えにより、宗匠の道を追って坐禅修行しなさいと勧めるのです。

きかずや祖師のいはく、「修証はすなはちなきにあらず、染汚(ゼンナ)することはえじ。」又いはく、「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。」

祖師のこの言葉を聞いたことはありませんか、「修行と悟りは、ないことはないが、それを汚してはならない。」と。また「道を見るものは道を修する。」と。知ることです、悟りを得た中で修行しなさいということです。」

とうていはく、「わが朝の先代に、教をひろめし諸師、ともにこれ入唐伝法せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、ただ教をのみつたへし。」

問うて言う、「わが国の先代に教えを広めた諸師は、皆、唐国へ渡って日本に法を伝えた時に、何故この坐禅を差し置いて、専ら教えだけを伝えたのですか。」

しめしていはく、「むかしの人師(ニンシ)この法をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり。」

教えて言う、「昔の師となる人が、この坐禅の法を伝えなかったのは、まだ時節が来ていなかったからです。」

とうていはく、「かの上代の師、この法を会得(エトク)せりや。」
しめしていはく、「会
(エ)せば通じてん。」

問うて言う、「その昔の師は、この坐禅の法を会得していたでしょうか。」
教えて言う、「会得すれば伝えていたでしょう。」

辨道話(12)へ戻る

辨道話(14)へ進む

ホームへ