辨道話(22)

むかし、則公監院(ソッコウ カンニン)といふ僧、法眼禅師(ホウゲン ゼンジ)の会中(エチュウ)にありしに、法眼禅師とうていはく、
「則監寺
(ソク カンス)、なんぢわが会(エ)にありていくばくのときぞ。」
則公がいはく、「われ師の会にはんべりて、すでに三年をへたり。」

昔、則公監院という僧が法眼禅師の道場にいた時、法眼禅師が尋ねました。
「則公監寺さん、あなたはわたしの道場に来て、どれほどになりますか。」
則公は答えて、「私は師の道場におりまして、すでに三年がたちました。」

禅師のいはく、「なんぢはこれ後生(ゴショウ)なり、なんぞつねにわれに仏法をとはざる。」
則公がいはく、「それがし、和尚をあざむくべからず。かつて青峰禅師
(セイホウ ゼンジ)のところにありしとき、仏法におきて安楽のところを了達せり。」

禅師が言うに、「あなたは私の後輩である。どうして平生私に仏法を尋ねないのか。」
則公は答えて、「私は和尚様を侮ってはおりません。以前、青峰禅師のところにいた時に、仏法に於いて安楽のところを悟ったのです。」

禅師のいはく、「なんぢいかなることばによりてか、いることをえし。」
則公がいはく、「それがし、かつて青峰にとひき、いかなるかこれ学人
(ガクニン)の自己なる。青峰のいはく、丙丁童子来求火(ビョウジョウ ドウジ ライグカ)。」

禅師が言うに、「あなたは、どういう言葉によって悟ることが出来たのか。」
則公は答えて、「私は以前、青峰に尋ねました、「仏道を学ぶ人の自己とは、どういうものでしょうか。」 青峰は答えて、「丙丁童子がやって来て火を求める。」と。

法眼のいはく、「よきことばなり。ただし、おそらくはなんぢ会せざらんことを。」
則公がいはく、「丙丁
(ビョウジョウ)は火に属す。火をもてさらに火をもとむ、自己をもて自己をもとむるににたりと会せり。」

法眼が言うに、「良い言葉です。但し、おそらくあなたは会得できていないだろう。」
則公は答えて、「丙丁は火の仲間です。火をもって更に火を求めるとは、自己をもって自己を求めるようなものであると会得しました。」

禅師のいはく、「まことにしりぬ、なんぢ会せざりけり。仏法もしかくのごとくならば、けふまでにつたはれじ。」

禅師が言うに、「本当にあなたは会得していないことが分かった。仏法がもしそのようならば、今日まで伝わらなかっただろう。」

ここに則公、懆悶(ソウモン)してすなはちたちぬ。中路(チュウロ)にいたりておもひき、禅師はこれ天下の善知識(ゼンチシキ)、又五百人の大導師なり、わが非をいさむる、さだめて長処あらん。

ここで則公は煩悶して師の下を立ち去りました。その途中で思うことには、「禅師は天下に知られた良き師であり、又五百人の修行僧を導く師である。私の非を戒めたのは、きっと師には長所があるからにちがいない。」と。

禅師のみもとにかへりて、懺悔礼謝(サンゲ ライジャ)してとうていはく、「いかなるかこれ学人の自己なる。」
禅師のいはく、「丙丁童子来求火」と。則公、このことばのしたに、おほきに仏法をさとりき。

そこで禅師の下に帰って懺悔礼拝して尋ねました。「仏道を学ぶ人の自己とは、どういうものでしょうか。」
禅師は答えて、「丙丁童子がやって来て火を求める。」と。則公は、この言葉の下に大いに仏法を悟りました。

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