辨道話(9)

とふていはく、「いまわが朝(チョウ)につたはれるところの法華宗(ホッケシュウ)、華厳教(ケゴンギョウ)、ともに大乗の究竟(クキョウ)なり。いはんや真言宗(シンゴンシュウ)のごときは、毘盧遮那如来(ビルシャナニョライ)したしく金剛薩埵(コンゴウサッタ)につたえへて、師資(シシ)みだりならず。

問うて言う、「今、我が国に伝わる法華宗や華厳宗は、共に大乗の教えの究極である。まして真言宗の教えは、毘盧遮那仏(ビルシャナブツ)が親しく金剛菩薩(コンゴウボサツ)に伝えたもので、師も弟子も正当なものです。

その談(ダン)ずるむね、即心是仏(ソクシン ゼブツ)、是心作仏(ゼシン サブツ)といふて、多劫(タゴウ)の修行(シュギョウ)をふることなく、一座に五仏の正覚(ショウガク)をとなふ、仏法の極妙(ゴクミョウ)といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。」

その説いている教えは、即心是仏(この心がそのまま仏である)、是心作仏(この心こそがそのまま仏である)と言って、多年の修行を経ることなく、即座に五仏(大日、阿閦、宝生、弥陀、不空成就)の悟りを得るといいます。これは仏法の中で最も優れたものと言うべきです。それなのに、今言うところの坐禅の修行は、何の優れたことがあって、それらを差し置いて、ひたすら勧めるのですか。」

しめしていはく、「しるべし、仏家(ブッケ)には、教の殊劣(シュレツ)を対論することなく、法の浅深(センシン)をえらばず、ただし修行の真偽(シンギ)をしるべし。草華山水(ソウカ サンスイ)にひかれて仏道に流入(ルニュウ)することありき、土石沙礫(ドシャク シャリャク)をにぎりて仏印(ブッチン)を稟持(ボンジ)することあり。いはんや広大の文字は万象(バンショウ)にあまりてなほゆたかなり、転大法輪(テンダイホウリン)又 一塵(イチジン)にをさまれり。

教えて言う、「知ることです。仏家では、教えの優劣を議論せず、法の深浅を選ぶことはありませんが、但し修行の真偽を知りなさい。過去には草花や山水に引かれて仏道に入った人があり、土石 砂礫を握って仏の悟りを受け継いだ人もあります。まして経典の広大な文字は、森羅万象の中に有り余って更に豊かであり、仏の大説法は、また塵一つの中にも収まっているのです。

しかあればすなはち、即心即仏(ソクシン ソクブツ)のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏(ソクザ ジョウブツ)のむね、さらに又かがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。

ですから、即心即仏(心こそ仏にほかならない)という言葉は水面に映る月のようなものです。即坐成仏(坐ることそのものが成仏である)という教えは、更に鏡の中の姿なのです。言葉の上手に寄りかかってはいけません。

いま直証菩提(ジキショウ ボダイ)の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人(ドウニン)とならしめんとなり。

今、直ちに悟りを証する修行を勧めるに当たって、仏や祖師方が相伝した坐禅の妙道を示して、真実の道人となっていただこうと思うのです。

また、仏法を伝授(デンジュ)することは、かならず証契(ショウカイ)の人をその宗師(シュウシ)とすべし。文字をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず、一盲の衆盲(シュモウ)をひかんがごとし。

又、仏法の伝授には、必ず悟りを証された人をその師としなさい。経の文字を数える学者は、その導師とするに足りません。それは一人の盲人が多くの盲人を引き連れるようなものだからです。

いまこの仏祖正伝(ブッソ ショウデン)の門下には、みな得道証契(トクドウ ショウカイ)の哲匠(テッショウ)をうやまひて、仏法を住持(ジュウジ)せしむ。かるがゆゑに、冥陽(メイヨウ)の神道もきたり帰依し、証果の羅漢(ラカン)もきたり問法するに、おのおの心地(シンチ)を開明(カイメイ)する手をさづけずといふことなし。余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子は仏法をならふべし。」

今、仏祖の正しい伝統の門下では、皆、悟りを得て悟りを証された優れた師を敬って、仏法を護持しています。そのために、冥界や陽界の鬼神もやって来て帰依し、悟れる羅漢も来て法を尋ねるに、各々の心を明らかにする手だてを授けることが出来るのです。このことは、ほかの宗門では聞かれないことです。もっぱら、仏弟子は仏法を学びなさい。」

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