仏性 (2)

(ぶっしょう)

尽界(ジンカイ)はすべて客塵(カクジン)なし、直下(ジキゲ)さらに第二人あらず。

この全世界には全く外から来るものはなく、そこには決して第二人(他人)はいません。

直截根源人未識(チョクセツ コンゲン ニンミシキ 直に根源を截るも 人未だ識らず)
忙忙業識幾時休
(ボウボウ ゴッシキ キジキュウ 忙忙たる業識 幾時か休せん)
なるがゆへに。

ただ、人はまだ直ちに生死輪廻の根源を截断することを知らず、慌てふためく悪業の妄念を何時までも止めないのです。

妄縁起(モウエンギ)の有(ウ)にあらず、徧界不曾蔵(ヘンガイ フゾウゾウ 徧界曾て蔵さず)のゆへに。

仏性は、妄念によって起きた存在ではありません。何故なら、全世界はこれまで何も隠していないからです。

徧界不曾蔵といふは、かならずしも満界是有(マンカイ ゼウ)といふにあらざるなり。

全世界はこれまで何も隠していないとは、必ずしも仏性が全世界に遍く存在しているということではありません。

徧界我有(ヘンガイ ガウ)は外道(ゲドウ)の邪見(ジャケン)なり。

「全世界は我が所有である」というのは外道(仏教を信じない者)の誤った考えです。

本有(ホンヌ)の有にあらず、亘古亘今(コウコ コウコン 古に亘り今に亘る)のゆへに。

仏性は、本来具備しているという存在ではありません。これは古今に亘る存在だからです。

始起(シキ)の有にあらず、不受一塵(フジュ イチジン 一塵を受けず)のゆへに。

仏性は、始めて生じた存在ではありません。これは僅かな煩悩の塵も受け付けない存在だからです。

條條(ジョウジョウ)の有にあらず、合取(ガッシュ)のゆへに。

仏性は、個々に分かれている存在ではありません。これは依り合って存在するものだからです。

無始有(ムシウ)の有にあらず、是什麽物恁麽来(シ シモブツ インモライ 是れ什麽物か恁麽に来たる)のゆへに。

仏性は、始まりが無くて有る存在ではありません。これは「何者がそのようにやって来たのか。」と言われる存在だからです。

始起有(シキウ)の有にあらず、吾常心是道(ゴジョウシン ゼドウ)のゆへに。

仏性は、始めて生じて有るという存在ではありません。我々の平常の心は道であるからです。

まさにしるべし、悉有中に衆生(シュジョウ)快便難逢(カイベン ナンポウ 快便逢い難し)なり。

まさにこのように知りなさい。悉く有る仏性の中に、衆生は好い便宜を得難いということを。

悉有を会取(エシュ)することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落(トウタイ ダツラク)なり。

悉く有るという仏性をこのように会得すれば、悉く有る仏性によって、一切の煩悩妄想を脱落して無礙自在なのです。

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