仏性 (6)

(ぶっしょう)

時節若至(ジセツ ニャクシ)の道(ドウ)を、古今(ココン)のやから往々におもはく、仏道の現前(ゲンゼン)する時節の向後(コウゴ)にあらんずるをまつなりとおもへり。

釈尊の「時節がもし至れば」という言葉を、古今の輩が往々にして思うことには、仏道の現れる時節が今後にあるだろうからそれを待つのであると。

かくのごとく修行しゆくところに、自然(ジネン)に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、辦道功夫(ベンドウ クフウ)するにも、現前せずといふ。

そして、そのように修行していくことで、自然に仏性の現れる時節に会うのであり、時節が至らない中は、師に問法しても、修行に精進しても、仏性は現れないと言っている。

恁麼見取(インモ ケンシュ)して、いたづらに紅塵(コウジン)にかへり、むなしく雲漢(ウンカン)をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道(テンネン ゲドウ)の流類(ルルイ)なり。

この者たちはそのように考えて、徒らに汚れた世俗に帰り、空しく時節の至る時を天を仰いで見守っているのである。このような者たちは、おそらく因果を無視した天然外道の部類でありましょう。

いはゆる欲知仏性義(ヨクチ ブッショウギ)は、たとへば当知仏性義(トウチ ブッショウギ)といふなり。

いわゆる「仏性のことを知ろうと思えば」とは、言い換えれば「仏性のことを知りなさい」ということです。

当観時節因縁(トウカン ジセツ インネン)といふは、当知時節因縁(トウチ ジセツ インネン)といふなり。

「時節因縁を観察しなさい」という言葉は、「時節因縁を知りなさい」と言っているのです。

いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。

いわゆる仏性を知ろうと思うなら、この時節因縁を知るべきなのです。

時節若至といふは、すでに時節いたれり、なにの疑著(ギジャク)すべきところかあらんとなり。

「時節がもし至れば」という言葉は、既に時節は至っているのであり、これに何の疑いがあろうかという意味なのです。

疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来(ゲンガ ブッショウライ)なり。

時節を疑うことは、どうであろうとも、我々の所に仏性は来ているのです。

しるべし、時節若至は、十二時中不空過(ジュウニジチュウ フクウカ)なり。

知ることです、「時節がもし至れば」とは、時節は一日中空しく過ぎることなく至っているということなのです。

若至は既至(キシ)といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至(ブッショウ フシ)なり。

ですから、「もし至れば」とは、「既に至っている」と言うことと同じなのです。「時節がもし至れば」と待っていれば、仏性は来ないのです。

しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰(ゴリジショウ)なり。

このように、時節は既に至っているのですから、仏性は現れているのです。又は、仏性の理は自ずから明らかなのです。

おほよそ、時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。

およそ、時節の至らない時節は未だないのであり、仏性の現れない仏性はないのです。

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