行持 下(14)

このとき窮臈寒天(キュウロウ カンテン)なり、十二月初九 夜といふ。天大雨雪ならずとも、深山高峰の冬夜(トウヤ)は、おもひやるに人物の窓前に立地すべきにあらず。竹節(チクセツ)なほ破す、おそれつべき時候なり。

慧可が達磨大師を訪ねた時期は、年の瀬の寒い季節、十二月初旬 九日の夜であったと言います。大雪が降らなくても、深山高峰の冬の夜は、想像するに、とても人間が窓の外に立っていられる所とは思えません。寒さで竹の節さえ割れるという恐ろしい時候です。

しかあるに、大雪匝地(ダイセツ ソウチ)、埋山沈峰(マイサン チンホウ)なり。破雪(ハセツ)して道(ドウ)をもとむ、いくばくの嶮難(ケンナン)なりとかせん。

しかもその日は大雪が地に満ちて、山を埋め峰を没するほどでした。雪をかき分けて道を求めることに、どれほど多くの困難が伴ったことでしょう。

つゐに祖室(ソシツ)にとづくといへども、入室(ニッシツ)ゆるされず、顧眄(コメン)せざるがごとし。この夜、ねぶらず、坐せず、やすむことなし。堅立不動(ケンリュウ フドウ)にしてあくるをまつに、夜雪(ヤセツ)なさけなきがごとし。

そうして慧可は、遂に達磨の部屋に行き着いたのですが、師は部屋に入ることを許さず、慧可を顧みることさえしなかったのです。慧可はこの夜、眠らず、坐らず、休むことはありませんでした。じっと立って夜明けを待つ慧可に、夜の雪は情けのない者のように降るのでした。

ややつもりて腰をうづむあひだ、おつるなみだ滴滴こほる。なみだをみるになみだをかさぬ。身をかへりみて身をかへりみる。自惟(ジユイ)すらく、

雪がだんだん積もって腰を埋める間、落ちる涙の一滴一滴は凍り、その涙を見てまた涙を重ねるのでした。慧可は何度も我が身を省みて、自ら思うのでした。

「昔の人、道を求むるに、骨を敲(ウ)ちて髄を取り、血を刺して饑(ウエ)たるを済(スク)う。髪を布きて泥(デイ)を淹(オオ)ひ、崖(キシ)に投げて虎に飼ふ。古(イニシ)へ尚 此(カク)の若し、我又、何人ぞ。」

「昔の人は、道を求めるのに自分の骨をたたいて髄を取り出したり、或いは、飢えた者を救うのに自分の身を刺して血を与えたり、或いは、仏の為に自分の髪を泥の上に敷いたり、或いは、法の為に崖から身を投げて飢えた虎に与えたりしたという。昔の人でさえ、このようにされたのである。ならば私は一体どんな人間なのか。」

かくのごとくおもふに、志気(シイキ)いよいよ励志(レイシ)あり。いまいふ古尚若此(コショウ ニャクシ)、我又何人(ガウ カジン)を、晩進もわすれざるべきなり。しばらくこれをわするるとき、永劫(ヨウゴウ)の沈溺(チンデキ)あるなり。

このように考えて、慧可は求道の志をいよいよ励ましたのです。今言うところの、「昔の人でさえ、このようにされたのである。ならば私は一体どんな人間なのか。」という言葉を、晩学後進の人も忘れてはいけません。少しでもこれを忘れれば、永劫に苦界に沈むことになるのです。

かくのごとく自惟して、法をもとめ道をもとむる志気のみかさなる。澡雪(ソウセツ)の操(ソウ)を操とせざるによりてしかありけるなるべし。

慧可はこのように自ら考えて、法を求め、道を求める志だけが積み重なったのです。雪を浴びることを、問題にしなかったので、そうなったのでしょう。(この訳不確実)

遅明(チメイ)のよるの消息、はからんとするに肝胆(カンタン)もくだけぬるがごとし、ただ身毛(シンモウ)の寒怕(カンハ)せらるるのみなり。

夜明けの遅い厳冬の夜の寒さは、推測するに心も砕けてしまうほどであったでしょう。思えばただ身の毛もよだつばかりです。

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