行持 下(16)

破顔(ハガン)は古(イニシエ)をきく、得随(トクズイ)は祖に学す。しづかに観想すらくは、初祖いく千万の西来(セイライ)ありとも、二祖もし行持せずば、今日の飽学措大(ホウガク ソダイ)あるべからず。

昔、霊鷲山の法会で、釈尊が花を手に取って瞬きすると、摩訶迦葉だけがこれを知って微笑み、そこで釈尊は迦葉に正法を伝えたと聞いています。また、初祖達磨が弟子たちに修行で得たものを次々に尋ねたところ、最後に慧可は初祖の前で礼拝して元の位置に帰って立ち、そこで初祖は「おまえは私の髄を得た」と言ったという話は、この祖師から学ぶ事が出来ます。静かに考えてみれば、初祖が幾千万回、西方のインドから来たとしても、二祖慧可が初祖の法を伝えなければ、今日の我々は仏法を十分に学ぶことが出来なかったのです。

今日われら正法(ショウボウ)を見聞(ケンモン)するたぐひとなれり、祖の恩かならず報謝すべし。その報謝は、余外(ヨゲ)の法はあたるべからず。身命(シンミョウ)も不足なるべし、国城(コクジョウ)もおもきにあらず。

この祖師のお蔭で、今日の我々は正法を見聞する仲間となることが出来たのです。ですから、この祖師の恩には必ず報恩感謝しなければいけません。その報恩感謝には、他の方法は適当ではありません。この身命で報いようとしても足らないのです。国や城も価値あるものではありません。

国城は他人にもうばはる、親子(シンシ)にもゆづる。身命は無常にもまかす、主君にもまかす、邪道にもまかす。しかあれば、これを挙して報謝に擬(ギ)するに不道(フドウ)なるべし。

国や城は他人にも奪われ、親から子にも譲るものです。この身命は世の無常にも任せ、主君にも任せ、邪道にも任せるものです。ですから、これでもって祖師に報恩感謝するとは言わないのです。

ただまさに日日の行持、その報謝の正道(ショウドウ)なるべし。いはゆるの道理は、日日の生命を等閑(トウカン)にせず、わたくしにつひやさざらんと行持するなり。

ただ正に日々の行持が、その報恩感謝の正道なのです。その道理とは、日々の生命をいい加減に過ごさず、私に費やさないように修行するということです。

そのゆゑはいかん。この生命は、前来(ゼンライ)の行持の余慶(ヨケイ)なり、行持の大恩なり。いそぎ報謝すべし。

何故ならば、この行持できる生命は、以前の仏祖による行持の余慶であり、行持の大恩によるものであるからです。ですから、急いでその恩に報いなさい。

かなしむべし、はづべし、仏祖行持の功徳分より生成(ショウジョウ)せる形骸(ケイガイ)を、いたづらなる妻子のづぶねとなし、妻子のもちあそびにまかせて、破落(ハラク)ををしまざらんことは。

悲しみ恥じなければならないことは、仏祖の行持の功徳から生まれた身体を、つまらない妻子のしもべとし、妻子のもてあそびに任せて、落ちぶれることを惜しいと思わないことです。

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