行持 下(18)

 石頭大師(セキトウ ダイシ)は、草庵を大石にむすびて、石上に坐禅す。昼夜にねぶらず、坐せざるときなし。衆務を虧闕(キケツ)せずといゑども、十二時の坐禅かならずつとめきたれり。

 石頭大師(希遷)は、草庵を大石に結んで、石の上で坐禅しました。昼夜に眠らず坐していない時はありませんでした。日々の務めを欠くことはありませんでしたが、一日の坐禅を必ず努めたのです。

いま青原(セイゲン)の一派の天下に流通(ルヅウ)すること、人天(ニンデン)を利潤せしむることは、石頭大力(セキトウ ダイリキ)の行持堅固(ギョウジ ケンゴ)のしかあらしむるなり。いまの雲門(ウンモン)、法眼(ホウゲン)のあきらむるところある、みな石頭大師の法孫なり。

今日、青原(行思)の一派が天下に広まって人々を利益していることは、石頭の優れた力による堅固な修行のお蔭なのです。今日の雲門宗や法眼宗で、法の眼を明らかにした人たちは、皆、石頭大師の法孫です。

 第三十一祖 大医禅師(ダイイ ゼンジ)は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服労九載(フクロウ クサイ)なり。すでに仏祖の祖風を嗣続(シゾク)するより、摂心無寐(セッシン ムビ)にして脅不至席(キョウ フシセキ)なること僅(ワズカニ)六十年なり。化(ケ)、怨親(オンシン)にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。真丹(シンタン)の第四祖なり。

 釈尊から第三十一代の祖師 大医禅師(道信)は、十四歳の頃に三祖大師(僧璨)と出会ってから、師に九年間従いました。仏祖の家風を受け継いでからは、心を整えて眠ることなく、身を横たえずに、ほぼ六十年過ごしました。その教化は、怨みのある人にも親しき人にも等しく及んで、道徳は人間界天上界に行き渡りました。大医禅師は中国の第四祖です。

貞観(ジョウガン)癸卯(ミズノト ウ)の歳(トシ)、太宗(タイソウ)、師の道味(ドウミ)を嚮(トウト)び、風彩(フウサイ)を瞻(ミ)んと欲して、赴京(フキョウ)を詔(ショウ)す。

唐の貞観十七年、太宗皇帝は大医禅師の道風を尊んで、その風采を見ようと都に来るように命じました。

師、上表遜謝(ジョウヒョウ ソンシャ)すること前後三返なり。竟(ツイ)に疾(シツ)を以て辞す。

師は書を差し上げてお断りすること前後三返して、終には病気を理由に辞退しました。

第四度、使(ツカイ)に命じて曰く、「如(モ)し果(ハタ)して赴か不んば、即ち首を取り来れ。」使、山に至って旨(ムネ)を諭す。

太宗は、四度目に使者に命じて言いました。「どうしても来ないと言うのなら首を取ってこい。」使者は大医禅師の住む山に行って、その言葉を伝えました。

師、乃(スナワ)ち頸(クビ)を引いて刃に就く、神色儼然(シンショク ゲンゼン)たり。

すると師は、首を伸ばして刀の前に坐りました。その態度は気高く厳かでした。

使、之(コレ)を異とし、廻(カエ)りて状を以て聞(モン)す。帝、弥加(イヨイヨ)歎慕(タンボ)す。珎繒(チンソウ)を就賜(シュウシ)して、以て其の志を遂(ト)ぐ。

使者はこの様子を怪しんで、帰って書状で太宗に報告すると、帝は師をいよいよ感歎し敬慕するようになりました。そこで貴重な絹織物を師に贈り、その志を遂げたのです。

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