しるべし、一切諸法、悉皆解脱(シッカイ ゲダツ)なり。諸法の空なるにあらず、諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。
知ることです。全てのものは、ことごとく皆解脱しているのです。これは、全てのものが空である、というのではありません。また、全てのものは全てのものとして存在しているわけではない、というのでもありません。元来、ことごとく皆解脱しているのが全てのものの様子なのです。
いま四祖(シソ)には、未入塔時(ミニュウトウジ)の行持あり、既在塔時(キザイトウジ)の行持あるなり。生者(ショウジャ)かならず滅ありと見聞(ケンモン)するは小見(ショウケン)なり、滅者(メッシャ)は無思覚(ムシカク)と知見(チケン)せるは小聞(ショウモン)なり。
先ほどの四祖(大医禅師)には、塔に入る前の行持があり、また、塔の中での行持がありました。ですから、生者には必ず滅があると見ることは、浅はかな考えであり、死者には思量覚知が無いと見ることは、狭い知識なのです。
学道には、これらの小聞、小見をならふことなかれ。生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覚(ユウシカク)なるもあるべきなり。
仏道を学ぶには、このような浅はかな知識や考えを学んではいけません。生者には滅がないこともあるだろうし、死者には思量覚知があってもよいのです。
福州 玄沙宗一大師(ゲンシャ シュウイツ ダイシ)、法名(ホウミョウ)は師備(シビ)、福州 閩県(ミンケン)の人也。姓は謝氏(シャシ)なり。幼年より垂釣(シチョウ)をこのむ。小艇(コブネ)を南台江(ナンダイコウ)にうかめて、もろもろの漁者(ギョシャ)になれきたる。
福州の玄沙宗一大師は、出家の名を師備といい、生まれは福州閩県の人です。俗姓は謝と言います。幼年から釣りを好み、小舟を南台江に浮かべて、多くの漁師に慣れ親しんで来ました。
唐の咸通(カンツウ)のはじめ、年甫(ネンポ)三十なり、たちまちに出塵(シュツジン)をねがふ。すなはち釣舟(ツリブネ)をすてて、芙蓉山霊訓禅師(フヨウザン レイクン ゼンジ)に投じて落髪す。予章開元寺(ヨショウ カイゲンジ)道玄律師(ドウゲン リッシ)に具足戒(グソクカイ)をうく。
師は、唐の咸通年間の初めに、三十歳になると急に出家を願い求めました。そこで釣舟を捨てて、芙蓉山の霊訓禅師のもとに身を寄せて髪を落とし、予章 開元寺の道玄律師について出家の具足戒を受けました。
布衲芒履(フノウ モウリ)なり、食(ジキ)は纔(ワズ)かに気を接(ツ)ぐ。常に終日宴坐(シュウジツ エンザ)す。衆、皆 之(コレ)を異なりとす。
師は平生、木綿の衣を身に着けて、わら草履を履き、食はやっと命を保つほどでした。そしていつも終日坐禅していました。修行の衆は、皆 師をずば抜けた求道者と認めていました。
雪峰義存(セッポウ ギソン)と、本(モ)と法門の昆仲(コンチュウ)なり。而(シカ)も親近(シンゴン)すること師資(シシ)の若(ゴト)し。雪峰、其(ソ)の苦行(クギョウ)を以て、呼んで頭陀(ヅダ)と為す。
師は、雪峰義存とは、もともと同じ門下の弟子兄弟でしたが、師弟のように親しい仲でした。雪峰は、師の苦行を見て、頭陀というあだ名を付けました。
一日(イチジツ)、雪峰問て曰く、「阿那箇(アナコ)か是(コレ)備頭陀(ビヅダ)。」
師、対(コタ)へて曰く、「終(ツイ)に敢(アエ)て人を誑(タブラ)かさず。」
ある日、雪峰は師に尋ねました。「師備 頭陀さん、あなたはどういう者ですか。」
師は答えました。「最後まで人を欺くことはありません。」
異日(イジツ)、雪峰 召(ヨ)んで曰く、「備頭陀、何ぞ徧参(ヘンサン)し去らざる。」
師曰く、「達磨(ダルマ)、東土(トウド)に来たらず、二祖、西天(サイテン)に往(ユ)かず。」 雪峰、之(コレ)を然(シカ)りとす。
別の日に、雪峰は師を呼んで尋ねました。「師備 頭陀さん、あなたはなぜ諸方に師を訪ねないのですか。」
師は答えました。「達磨は中国に来なかったし、二祖(慧可)はインドへ行きませんでした。」 雪峰は、師をその通りと認めました。