行持 上(28)

南岳(ナンガク)大慧禅師(ダイエ ゼンジ)懐譲和尚(エジョウ オショウ)、そのかみ曹谿(ソウケイ)に参じて、執侍(シュウジ)すること十五秋(ジュウゴシュウ)なり。しかうして伝道授業(デンドウ ジュゴウ)すること、一器水瀉一器(イッキスイ シャイッキ)なることをえたり。古先(コセン)の行履(アンリ)、もとも慕古(モコ)すべし。

南嶽の大慧禅師 懐譲和尚は、昔 曹谿(六祖 大鑑慧能禅師)に入門して、十五年間 そばに仕えました。そして六祖の道を、一器の水を一器に移し替えるように受け継ぎました。この古聖の行跡は、最も慕うべきものです。

十五秋の風霜(フウソウ)、われをわづらはすおほかるべし。しかあれども、純一に究辨(キュウベン)す、これ晩進(バンシン)の亀鏡(キキョウ)なり。

六祖に仕えた十五年間は、さぞ自分を煩わすことも多かったことでしょう。しかし、ただひたすらに仏道を究明したのです。これは後輩のよき手本です。

寒爐(カンロ)に炭なく、ひとり虚堂(キョドウ)にふせり。涼夜に燭(ショク)なく、ひとり明窓に坐する。たとひ一知半解(イッチハンゲ)なくとも、無為(ムイ)の絶学(ゼツガク)なり。これ行持なるべし。

冬の囲炉裏に炭はなく、一人で空の堂に臥したのです。涼しい夜には燭もなく、一人で月明かりの窓辺に坐ったのです。たとえ少しも悟るところが無くても、それは無為の仏道でした。これが行持というものです。

おほよそひそかに貪名愛利(トンミョウ アイリ)をなげすてきたりぬれば、日日に行持の積功(シャック)のみなり。このむね、わするることなかれ。

およそ密かに名利を愛する心を投げ捨てれば、日々に行持の功徳が積まれていくだけなのです。この道理を忘れてはいけません。

説似一物即不中(セツジイチモツ ソクフチュウ)は、八箇年の行持なり。古今のまれなりとするところ、賢不肖(ケンフショウ)ともにこひねがふ行持なり。

懐譲和尚の「自分を一物と説くことは適切でありません。」という言葉は、八ヶ年の行持により得たものです。これは古今にも希なことであり、賢い人も愚かな人も、共に願い望む行持です。

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