行持 上(34)

武宗(ブソウ)ののち、書記つひに還俗(ゲンゾク)して即位す。武宗の廃仏法(ハイブッポウ)を廃して、宣宗(センソウ)すなはち仏法を中興(チュウコウ)す。宣宗は即位在位のあひだ、つねに坐禅をこのむ。

武宗が亡くなった後、書記の宣宗は遂に還俗して即位し、武宗の行った仏法廃止を止めて、再び仏法を盛んにしました。そして宣宗は即位してから在位の間、常に坐禅を好みました。

未即位のとき、父王のくにをはなれて、遠地の渓澗(ケイカン)に遊方(ユホウ)せしとき、純一に辨道(ベンドウ)す。即位ののち、昼夜に坐禅すといふ。

宣宗は即位していない時代に、父王の国を離れて遠方の渓流を遊行した時に、純一に精進したのです。即位の後は、昼夜に坐禅したといいます。

まことに、父王すでに崩御(ホウギョ)す、兄帝(ケイテイ)また晏駕(アンガ)す、をひのために打殺(タセツ)せらる、あはれむべき窮子(グウジ)なるがごとし。

まことに宣宗の半生は、父王は既に亡くなり、跡を継ぐ兄もまた亡くなり、甥のために打ち殺されて、遠方にさまよい窮している哀れな長者の息子のようでした。

しかあれども、励志(レイシ)うつらず辨道功夫(ベンドウ クフウ)す。奇代(キタイ)の勝躅(ショウチョク)なり、天真の行持(ギョウジ)なるべし。

しかし、仏道に励む志は変わらず修行精進したのです。これは希代の優れた足跡であり、真実の行持というべきです。

 雪峰(セッポウ)真覚大師(シンガク ダイシ)義存和尚(ギソン オショウ)、かつて発心(ホッシン)よりこのかた、掛錫(カシャク)の叢林(ソウリン)および行程(コウテイ)の接待、みちはるかなりといへども、ところをきらはず、日夜の坐禅おこたることなし。雪峰草創の露堂々(ロドウドウ)にいたるまで、おこたらずして坐禅と同死(ドウシ)す。

 雪峰山の真覚大師 義存和尚は、昔 発心して以来、入門の道場や旅先で炊事係を務めて、遥か遠くまで行脚しましたが、どこであろうと日夜の坐禅を怠ることはありませんでした。雪峰山に道場を開いて真の面目を発揮するに至るまで、怠ることなく坐禅と生死を共にしたのです。

咨参(シサン)のそのかみは、九上(キュウジョウ)洞山(トウザン)、三到(サントウ)投子(トウス)する、希世(キセイ)の辨道(ベンドウ)なり。行持の清厳(セイゲン)をすすむるには、いまの人、おほく雪峰 高行(コウギョウ)といふ。

雪峰が教えを学んでいた当時、九度 洞山に上り、三度 投子を訪れて教えを乞うたことは、希世の精進でした。修行の清潔で厳格なことを勧めるのに、今の人の多くが、雪峰は立派な修行者であると言って推薦します。

雪峰の昏昧(コンマイ)は諸人とひとしといへども、雪峰の伶俐(レイリ)は諸人のおよぶところにあらず。これ行持のしかあるなり。いまの道人(ドウニン)、かならず雪峰の澡雪(ソウセツ)をまなぶべし。

雪峰の愚かなところは世の人々と同じであっても、雪峰の怜悧なところは、世の人々の及ぶ所ではありません。これは雪峰の修行が優れているからです。ですから今 仏道を学んでいる人は、必ず雪峰の修行を学びなさい。

しづかに雪峰の諸方に参学せし筋力(キンリキ)をかへりみれば、まことに宿有霊骨(シュクウ レイコツ)の功徳(クドク)なるべし。

静かに雪峰が諸方に学んだ体力を顧みると、それは実に生得の優れた精神力の功徳によるものと思われます。

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