道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

八大人覚(1)

(はち だいにんがく)

  諸仏は是れ大人(ダイニン)なり、大人の覚知する所なれば、所以(ユエ)に八大人覚と称(ショウ)す。此(コ)の法を覚知するを、涅槃(ネハン)の因と為(ナ)す。我が本師釈迦牟尼仏(ホンシ シャカムニブツ)、入涅槃(ニュウ ネハン)したまひし夜の最後の所説(ショセツ)なり。

  諸仏は大人(優れた徳を備えた人)である。この大人が自覚する八つの法なので八大人覚という。この法を自覚することが、涅槃(煩悩を滅ぼした悟りの境地)の因なのである。これは我々の宗祖、釈尊が入滅された夜の、最後の説法である。

  一つには少欲(ショウヨク)。彼(カ)の未得(ミトク)の五欲の法の中に於て、広く追求(ツイグ)せざるを、名づけて少欲と為す。

  第一は少欲(欲が少ないこと)である。まだ手に入れていない五欲(眼 耳 鼻 舌 身に由来する欲)のものの中で、それを空しく追求しないことを少欲という。

  仏の言(ノタマ)はく、
「汝等比丘
(ナンダチ ビク)、当(マサ)に知るべし、多欲の人は、多く名利(ミョウリ)を求むるが故に、苦悩も亦(マ)た多し。

  仏(釈尊)の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、このように知りなさい。欲の多い人は、多くの名利を求めるので、苦悩もまた多いのである。

少欲の人は、求むること無く欲無ければ、則(スナハ)ち此の患ひ無し。直爾(タダチ)に少欲すら尚(ナ)ほ応(マサ)に修習(シュジュウ)すべし。何(イカ)に況(イハ)んや少欲の能(ヨ)く諸(モロモロ)の功徳(クドク)を生ずるをや。

しかし欲の少ない人は、求めること無く、欲が無いので、このような患いは無い。だからすぐに少欲を修め学びなさい。まして少欲は多くの功徳を生むのである。

少欲の人は、則ち諂曲(テンゴク)して以て人の意(ココロ)を求むること無し。亦復(マ)た諸根(ショコン)の為に牽(ヒ)かれず。

欲の少ない人は、自分の心を曲げへつらって、人の好意を求めることが無い。また外界の見るものや聞くものなどに心が煩わされない。

少欲を行ずる者は、心則ち坦然(タンネン)として、憂畏(ウイ)する所なし。事(コト))に触(フ)れて余り有り、常に足らざること無し。少欲有る者は、則ち涅槃(ネハン)有り。是(コ)れを少欲と名づく。」

少欲を実行する者は、心が平安で憂い恐れることがない。物事に触れても満ち足りていて、常に不足が無いのである。だから少欲の者には涅槃(煩悩を滅ぼした悟りの境地)がある。これを少欲という。」

  二つには知足(チソク)。已得(イトク)の法の中に、受取するに限りを以てするを、称して知足と曰(イ)ふ。

  第二は知足(足ることを知る)である。すでに手に入れたものの中で、それを受け取るのに限度を知ることを、知足という。

  仏の言(ノタマ)はく、
「汝等比丘、若
(モ)し諸の苦悩を脱せんと欲(ほっ)せば、当(マサ)に知足を観ずべし。知足の法は、即ち是れ富楽安穏(フラク アンノン)の処なり。 

  仏の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、もしすべての苦悩を解脱しようと願うなら、足るを知るということを考察しなさい。足るを知るという法は、満ち足りて安穏な所なのである。

知足の人は、地上に臥すと雖(イヘド)も、猶(ナ)ほ安楽(アンラク)なり。不知足(フチソク)の者は、天堂(テンドウ)に処(ショ)すと雖も、亦た意(ココロ)に称(カナ)はず。

足るを知る人は、大地の上に臥しても安楽なのである。しかし足るを知らない者は、天上界に住んでも意に適うことはない。

不知足の者は、富むと雖も而(シカ)も貧し。知足の人は、貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲の為に牽(ヒ)かれて、知足の者に憐愍(レンミン)せらる。是れを知足と名づく。」 

足るを知らない者は、境遇は豊かでも心は貧しく、足るを知る人は、境遇は貧しくても心は豊かなのである。足るを知らない者は、常に五欲に煩わされていて、足るを知る者に憐れまれるのである。これを知足という。」

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