八大人覚(3)

(はち だいにんがく)

  五つには不忘念(フモウネン)。亦(マ)た守正念(シュショウネン)と名づく。法を守って失はざるを、名づけて正念(ショウネン)と為(ナ)す。亦た不忘念と名づく。

  第五は不忘念(仏の教えを心に念じて忘れないこと)である。又は守正念ともいう。仏の教えを守って失わないことを正念といい、また不忘念という。

  仏の言(ナタマ)はく、
「汝等比丘
(ナンダチ ビク)、善知識(ゼンチシキ)を求め、善護助(ゼンゴジョ)を求むるは、不忘念に如(シ)くは無し。若(モ)し不忘念ある者は、諸(モロモロ)の煩悩の賊、則(スナハ)ち入ること能(アタ)はず。是の故に汝等、常に当(マサ)に念を摂(オサ)めて心に在(オ)くべし。

  仏(釈尊)の言うことには、
「比丘(僧)たちよ、善き師を求め、善き保護者を求めるのなら、不忘念(仏の教えを心に念じて忘れないこと)に勝るものは無い。もし不忘念があれば、あらゆる煩悩の賊は心に入ることが出来ないのである。だからお前たちは、常に不忘念を心に念じなさい。

(モ)し念を失する者は、則ち諸の功徳(クドク)を失す。若し念力(ネンリキ)堅強(ケンゴウ)なれば、五欲の賊の中に入ると雖(イヘド)も、為に害せられず。譬へば鎧(ヨロイ)を著(キ)て陣に入れば、則ち畏(オソ)るる所無きが如し。是(コ)れを不忘念と名づく。」

もしこの念を失えば、多くの功徳を失うであろう。しかし、もしこの念の力が堅固であれば、五欲(眼 耳 鼻 舌 身に由来する欲)の賊の中に入っても害を受けることは無い。例えば鎧を着て戦場に入れば、畏れる敵が無いようなものである。これを不忘念という。」

  六つには修禅定(シュゼンジョウ)。法に住して乱れず、名づけて禅定と曰(イ)ふ。 

  第六は修禅定(坐禅を修めること)である。寂静の法に住して乱れないことを禅定という。

  仏の言(ノタマ)はく、
「汝等比丘、若し心を摂
(オサ)むれば、心 則(スナハ)ち定(ジョウ)に在(ア)り。心定に在るが故に、能(ヨ)く世間消滅の法相を知る。是の故に汝等、常に当(マサ)に精進(ショウジン)して、諸(モロモロ)の定を修習(シュジュウ)すべし。

  仏の言うことには、
「比丘たちよ、もし坐禅によって心が治まれば、心は禅定にあるのである。そして心が禅定にあるから、よく世間の消滅の法の有り様を知ることが出来るのである。だからお前たちよ、常に精進してあらゆる禅定を習い修めなさい。

(モ)し定を得る者は、心則ち散ぜず。譬(タト)へば水を惜しむ家の、善く提塘(テイトウ)を治むるが如し。行者(ギョウジャ)も亦た爾(シカ)り。智慧の水の為の故に、善く禅定を修して、漏失(ロウシツ)せざらしむ。是れを名づけて定と為す。」

もし禅定を得れば心は散乱しない。例えば水を大切にする家が、よく堤防を管理するようなものである。修行者もまたその通りである。智慧の水を守るために、よく禅定を修めて失わないようにするのである。これを修禅定という。」

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