発菩提心(2)

(ほつぼだいしん)

この発菩提心(ホツ ボダイシン)、おほくは南閻浮(ナンエンブ)の人身(ニンシン)に発心(ホッシン)すべきなり。八難処(ハチナンジョ)等にも、すこしきはあり、おほからず。

この菩提心は、その多くは人間世界の人たちが発心するものです。仏に出会うことが難しい八難処(地獄、畜生、餓鬼などの苦界。長寿の天界。辺地。聾盲唖などの障り。処世に長ずる人。仏が世に出る前と仏が滅した後。)等にも少しはありますが、多くはありません。

菩提心をおこしてのち、三阿僧祇劫(サン アソウギコウ)、一百大劫修行す。あるいは無量劫おこなひて、ほとけになる。

菩提心を起こした後に、三阿僧祇劫、一百大劫という果てしない年月を修行するのです。或いは無量劫の間 修行して仏になるのです。

あるいは無量劫おこなひて、衆生(シュジョウ)をさきにわたして、みづからはつひにほとけにならず、ただし衆生をわたし、衆生を利益(リヤク)するもあり。菩薩の意楽(イギョウ)にしたがふ。

或いは無量劫 修行して、人々を先に悟りの浄土へ渡し、自らは遂に仏にならずに人々を利益する者もあります。これはその菩薩の志に従います。

おほよそ菩提心は、いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導(インドウ)せましと、ひまなく三業(サンゴウ)にいとなむなり。いたづらに世間の欲楽(ヨクラク)をあたふるを、利益衆生とするにはあらず。

およそ菩提心とは、どうしたらすべての人々が菩提心を起こして仏道に入ることが出来るだろうかと、休みなく身と口と心で営むことです。徒に世間の欲の楽しみを与えることを、人々の利益とするのではありません。

この発心、この修証(シュショウ)、はるかに迷悟(メイゴ)の辺表(ヘンピョウ)を超越(チョウオツ)せり。三界(サンガイ)に勝出し、一切に抜群せり。なほ声聞(ショウモン)、辟支仏(ビャクシブツ)のおよぶところにあらず。

この発心、この修行は、遙かに迷悟のほとりを越えています。凡夫の世間に優れ、すべてのものから抜きん出て優れています。自らの悟りを求める声聞(仏の説法を聞いて修行する者)や辟支仏(縁起の法を観じて一人修行する者)の及ぶ所ではありません。

迦葉菩薩(カショウ ボサツ)、偈(ゲ)をもて釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)をほめたてまつるにいはく、
「発心と畢竟
(ヒッキョウ)と二つながら別無し、是(カ)くの如(ゴト)くの二心は先の心 難(カタ)し。
自未得度先度他
(ジミトクド センドタ)なり、是の故に我れ初発心を礼す。
初発 已
(スデ)に天人師(テンニンシ)たり、声聞(ショウモン)及び縁覚(エンガク)に勝出せり。
是くの如くの発心は三界
(サンガイ)に過(コ)えたり、是の故に最無上と名づくることを得たり。」

迦葉菩薩は、偈文によって釈迦牟尼仏を褒めたたえて言いました。
「菩提心を起こすことと、畢竟の仏の悟りと、この二つに区別はありません。この二つの中では、菩提心を起こすことの方が困難です。
何故なら、自未得度先度他(自らが悟りの浄土へ渡る前に、先ず他を渡す)であるからです。そのために、私は初めて菩提心を起こした人を敬い礼拝するのです。
初めて菩提心を起こした時から、すでに天上界 人間界の師なのです。声聞や縁覚(辟支仏に同じ)の修行者にも勝る人なのです。
このような菩提心を起こすことは、煩悩の世間を越えることなのです。そのために最上の心と言うことが出来るのです。」と。

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