発菩提心(5)

(ほつぼだいしん)

おほよそ発心得道(ホッシン トクドウ)、みな刹那生滅(セツナ ショウメツ)するによるものなり。もし刹那生滅せずば、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪、いまださらざれば、後刹那の善、いま現生(ゲンショウ)すべからず。

およそ菩提心を起こすこと、悟りを得ることは、皆 刹那の間に生じ滅することによるものです。もし刹那に生滅しなければ、前の刹那の悪が去ることはありません。前の刹那の悪が去らなければ、後の刹那の善が新たに生まれることもありません。

この刹那の量は、ただ如来ひとり、あきらかにしらせたまふ。一刹那心 能起一語 一刹那語 能説一字(一刹那の心、能く一語を起こし、一刹那の語、能く一字を説く)も、ひとり如来のみなり。余聖不能(ヨショウ フノウ)なり。

この刹那の量は、ただ如来だけが明らかに知っておられるのです。「一刹那の心は一つの言葉を生み、一刹那の言葉は一つの文字を説く」 ということも、如来だけが出来ることであり、他の聖人には不可能なのです。

おほよそ壮士(ソウシ)の一弾指(イチタンジ)のあひだに、六十五の刹那ありて、五蘊生滅(ゴウン ショウメツ)すれども、凡夫(ボンプ)かつて不覚不知なり。恒刹那(ゴウセツナ)の量よりは、凡夫もこれをしれり。

およそ壮健な男が指をパチンと弾く間には、六十五の刹那があって、物も心も生滅しているのですが、凡人はそのことを一向に自覚せず知らないのです。ただ無量刹那の分量からは、凡人もその生滅を知っています。

一日一夜をふるあひだに、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて、五蘊ともに生滅す。しかあれども、凡夫かつて覚知せず。覚知せざるがゆゑに菩提心をおこさず。

一昼夜を経過する間には、六十四億九万九千九百八十の刹那があって、物も心も共に生滅しているといわれます。しかし凡人はそのことを一向に自覚しません。自覚しないために菩提心を起こすことはありません。

仏法をしらず、仏法を信ぜざるものは、刹那生滅の道理を信ぜざるなり。もし如来の正法眼蔵涅槃妙心(ショウボウゲンゾウ ネハンミョウシン)を、あきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり。

仏法を知らず、仏法を信じない人は、刹那生滅の道理を信じないものです。しかし、もし如来の正法の真髄、悟りの優れた心を明らかにしたならば、必ずこの刹那生滅の道理を信じるようになるのです。

いまわれら、如来の説教にあふたてまつりて、暁了(ギョウリョウ)するににたれども、わづかに恒刹那よりこれをしり、その道理しかあるべしと信受(シンジュ)するのみなり。

今我々は、釈尊の説かれた教えに会って、刹那生滅の道理をよく知っているようではありますが、それは僅かに無量の刹那からこれを知り、その道理はそうであろうと信じ受け取っているだけなのです。

世尊所説の一切の法、あきらめずしらざることも、刹那量をしらざるがごとし。学者みだりに貢高(コウコウ)することなかれ。極小をしらざるのみにあらず、極大をもまたしらざるなり。

我々が、釈尊の説かれたすべての法を明らかにせず、知らないことも、我々が刹那の大きさを知らないようなものです。仏法を学ぶ者は妄りに慢心してはいけません。何故なら、極小を知らないばかりか極大をも知らないからです。

もし如来の道力(ドウリキ)によるときは、衆生(シュジョウ)また三千界をみる。おほよそ本有(ホンヌ)より中有(チュウウ)にいたり、中有より当本有(トウホンヌ)にいたる、みな一刹那一刹那にうつりゆくなり。

もし如来の道力に頼るならば、人々は全世界を見ることが出来ます。凡そ本有(人の生存している期間)から中有(死んで次に生まれ変わるまでの期間)に至り、中有からまた本有の生存に至るまで、皆一刹那一刹那に移り変わっていくのです。

かくのごとくして、わがこころにあらず、業(ゴウ)にひかれて流転生死(ルテン ショウジ)すること、一刹那もとどまらざるなり。

このように、自分の意志ではなく、自らの行為に引っ張られて生死を流転して、一刹那も止まることはありません。

かくのごとく流転生死する身心(シンジン)をもて、たちまちに自未得度先度他(ジミトクド センドタ)の菩提心をおこすべきなり。たとひ発菩提心のみちに身心ををしむとも、生老病死して、つひに我有(ガウ)なるべからず。

このように生死流転する自分の身心で、すぐに自未得度先度他(自らが悟りの浄土へ渡る前に、先ず他を渡す)の菩提心を起こすべきです。何故なら、たとえ菩提心を起こす道に身心を使うことを惜しんでも、この身は生老病死して、遂に自分の所有ではないからです。

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