(いっぴゃくはち ほうみょうもん)
念施(ネンセ)は是れ法明門、果報を望まざるが故に。
(11)他者に施しを与える功徳を念じることは法明門(聖者の道に入る門)である。それは施しの果報を望まないからである。
念戒(ネンカイ)は是れ法明門、一切の願を具足するが故に。
(12)戒の功徳を念じることは法明門である。それはすべての願いを円満するからである。
念天(ネンテン)は是れ法明門、広大心を発するが故に。
(13)天界を念じることは法明門である。それは広大な心を起こすからである。
慈は是れ法明門、一切の生処(ショウショ)に善根摂勝(ゼンゴン ショウショウ)するが故に。
(14)慈心(衆生に楽を与えること)は法明門である。それはすべての衆生の生まれる所で、善根が勝利するからである。
悲は是れ法明門、衆生(シュジョウ)を殺害((セツガイ)せざるが故に。
(15)悲心(衆生の苦を抜くこと)は法明門である。それは衆生を殺害しないからである。
喜は是れ法明門、一切不喜の事を捨(シャ)するが故に。
(16)喜心(他の喜びを見て喜ぶこと)は法明門である。それはすべての喜ばざる事を捨てるからである。
捨は是れ法明門、五慾(ゴヨク)を厭離(エンリ)するが故に。
(17)捨心(憎愛の無いこと)は法明門である。それは五欲(眼耳鼻舌身の欲)を厭い離れるからである。
無常観は是れ法明門、三界(サンガイ)の慾を観ずるが故に。
(18)世の無常を観じることは法明門である。それは三界(欲望 物質 精神の三世界。世間のこと。)の欲を離れるからである。
苦観は是れ法明門、一切の願を断ずるが故に。
(19)世の苦を観じることは法明門である。それはすべての願いを断つからである。
無我観は是れ法明門、我に染著(センジャク)せざるが故に。
(20)無我を観じることは法明門である。それは我執に染まらないからである。
寂定観(ジャクジョウカン)は是れ法明門、心意を擾乱(ジョウラン)せざるが故に。
(21)すべては静寂であると観じることは法明門である。それは心を乱すことがないからである。
慚愧(ザンキ)は是れ法明門、内心寂定なるが故に。
(22)慚愧(罪過を恥じること)は法明門である。それは内心が静寂だからである。
羞恥(シュウチ)は是れ法明門、外悪(ゲアク)を滅するが故に。
(23)羞恥(自らを恥じること)は法明門である。それは外の悪事を滅ぼすからである。
実は是れ法明門、天人を誑(タブラ)かさざるが故に。
(24)真実なることは法明門である。それは天や人を誑かさないからである。
真は是れ法明門、自身を誑かさざるが故に。
(25)真理は法明門である。それは自分を誑かさないからである。
法行(ホウギョウ)は是れ法明門、法行に随順するが故に。
(26)仏法に随い行くことは法明門である。それは仏法の行いに随順するからである。
三帰は是れ法明門、三悪道を浄(キヨ)からしむるが故に。
(27)三帰(仏 仏法 僧団の三に帰依すること)は法明門である。それは三悪道(地獄 餓鬼 畜生の三道)を清浄にするからである。
智恩(チオン)は是れ法明門、善根を捨てざるが故に。
(28)恩を知ることは法明門である。それは善根を捨てないからである。
報恩は是れ法明門、他を欺負(ギフ)せざるが故に。
(29)恩に報いることは法明門である。それは他を欺き背くことがないからである。
不自欺(フジキ)は是れ法明門、自ら誉めざるが故に。
(30)自らを欺かないことは法明門である。それは自らを誉めることがないからである。