一百八法明門(7)

(いっぴゃくはち ほうみょうもん)

念覚分(ネンカクブン)是れ法明門、諸の法智(ホウチ)の如くなるが故に。

(68)念覚分(七覚分の一。正しい思念に住すること)は法明門(聖者の道に入る門)である。それはすべての物事の真理を知る智慧と同じだからである。

(七覚分とは、悟りの智慧に達する七つの在り方。)

法覚分(ホウカクブン)是れ法明門、一切諸法を照明(ショウミョウ)するが故に。

(69)法覚分(七覚分の二。真実の仏法を選び取ること)は法明門である。それはすべての物事の真理を明らかにすることだからである。

精進覚分(ショウジンカクブン)是れ法明門、善く知覚するが故に。

(70)精進覚分(七覚分の三。仏道に専心に精進すること)は法明門である。それによって仏法を良く悟るからである。

喜覚分(キカクブン)是れ法明門、諸の定(ジョウ)を得るが故に。

(71)喜覚分(七覚分の四。仏法の喜びに住すること)は法明門である。それによってすべての禅定(坐禅を修し、心を一つにして散乱させないこと)を得るからである。

除覚分(ジョカクブン)是れ法明門、所作(ショサ)(スデ)に辨(ベン)ずるが故に。

(72)除覚分(七覚分の五。悪を除き善を増長すること)は法明門である。それは身体と言葉と心の行いをわきまえているからである。

定覚分(ジョウカクブン)是れ法明門、一切法平等なるを知るが故に。

(73)定覚分(七覚分の六。禅定に入って心を散乱させないこと)は法明門である。それによってすべての物事は平等であることを知るからである。

捨覚分(シャカクブン)是れ法明門、一切の生(ショウ)を厭離(エンリ)するが故に。

(74)捨覚分(七覚分の七。外境に関わる心を捨てて平安に帰ること)は法明門である。それによってすべての生計を厭い離れるからである。

正見(ショウケン)是れ法明門、漏尽聖道(ロジン ショウドウ)を得るが故に。

(75)正見(八正道の一。仏法の道理を正しく知ること)は法明門である。それは煩悩を尽した聖者の道を得るからである。

正分別(ショウフンベツ)是れ法明門、一切の分別無分別を断ずるが故に。

(76)正分別(八正道の二。是非善悪を正しく分別すること)は法明門である。それはすべての誤った分別と無分別とを断つからである。

正語(ショウゴ)是れ法明門、一切の名字(ミョウジ)音声(オンジョウ)語言(ゴゴン)を響きの如く知るが故に。

(77)正語(八正道の三。正しい善い言葉を語ること)は法明門である。それはすべての人々の名前、音声、言葉を響きのように知るからである。

正業(ショウゴウ)是れ法明門、業(ゴウ)無く報(ホウ)無きが故に。

(78)正業(八正道の四。法に従った正しい行い)は法明門である。それは悪行が無く、悪の報いが無いからである。

正命(ショウミョウ)是れ法明門、一切の悪道を除滅(ジョメツ)するが故に。

(79)正命(八正道の五。法に従った正しい生活)は法明門である。それはすべての悪道を滅ぼすからである。

正行(ショウギョウ)是れ法明門、彼岸(ヒガン)に至るが故に、

(80)正行(八正道の六。正しい努力精進)は法明門である。それは彼岸(煩悩を滅ぼした涅槃の悟り)に至るからである。

正念(ショウネン)是れ法明門、一切の法を思念せざるが故に。

(81)正念(八正道の七。正しい思念)は法明門である。それはすべての悪法を思念しないからである。

正定(ショウジョウ)是れ法明門、無散乱三昧(ムサンラン ザンマイ)を得るが故に。

(82)正定(八正道の八。正しい禅定)は法明門である。それは散乱の無い統一した心を得るからである。

菩提心(ボダイシン)是れ法明門、三宝(サンボウ)を断ぜざるが故に。

(83)菩提心(仏道を求める心)は法明門である。それは三宝(仏と法と僧団)を断絶させないからである。

依倚(エイ)是れ法明門、小乗を楽(ネガ)はざるが故に。

(84)依倚(仏道にまかせ頼ること)は法明門である。それは小乗(狭小な教え)を願わないからである。

正信(ショウシン)是れ法明門、最勝の仏法を得るが故に。

(85)正信(仏道を正しく信ずること)は法明門である。それは最も勝れた仏法を得るからである。

増進(ゾウシン)是れ法明門、一切諸の善根(ゼンゴン)の法を成就(ジョウジュ)するが故に。

(86)増進(一層修行を進めること)は法明門である。それはすべての善法を成就するからである。

一百八法明門(8)へ進む

一百八法明門(6)へ戻る

ホームへ