深信因果(3)

この一段の因縁、天聖広燈録(テンショウ コウトウロク)にあり。しかあるに、参学のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果(ハツム インガ)のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇(ギョウフウ イッセン)して、祖道陵替(ソドウ リョウタイ)せり。

この一節の因縁話は天聖広燈録に記されています。しかしながら、仏道を学ぶ者たちは因果の道理を明らかにせず、徒に因果を無視する誤りを犯しています。悲しいことです、末世の風が吹いて仏祖の道が衰えているのです。

不落因果(フラク インガ)は、まさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣(アクシュ)に堕す。不昧因果(フマイ インガ)は、あきらかにこれ深信因果(ジンシン インガ)なり、これによりてきくもの悪趣を脱す。あやしむべきにあらず、うたがふべきにあらず。

「因果に落ちない」とは、まさに因果の道理を無視することです。これによって人は悪道に落ちるのです。「因果をくらまさない」とは、明らかに因果の道理を深く信じることです。これを聞き入れる者は悪道を脱け出すのです。これは不思議なことでも疑うべきことでもありません。

近代参禅学道と称するともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりとしる。いはゆる不落と不昧と、一等にしてことならずとおもへり。これによりて、因果を撥無せりとしるなり。

近来、禅に参じ仏道を学んでいると言う者たちの多くが、因果の道理を無視しています。何によって因果を無視していると知るのかといえば、いわゆる「因果に落ちない」と「因果をくらまさない」とは同じことで違いは無いと思っているからです。これによって彼等が因果を無視していると知るのです。

第十九祖 鳩摩羅多(クモラタ)尊者曰く、「且(シバラ)く善悪の報に三時あり。凡そ人 但(タダ)仁は夭(ヨウ)に、暴は寿に、逆は吉に、義は凶とのみ見て、便ち因果亡じ、罪福虚しと謂(オモ)へり。

第十九祖 鳩摩羅多尊者が言うことには、
「ひとまず善悪の報いを受ける時期には、現世、来世、更に後の世の三つの時がある。そもそも人間は、情け深い人が若死にして乱暴な者が長生きし、法に背く者が恵まれて正直者が災いに遭うということだけを見て、因果の道理など無く、悪行による罪や善行による幸福などは無いと思っている。

(コト)に影響相随ひ、毫釐(ゴウリ)も忒(タガ)ふ靡(ナ)きことを知らず。縦(タト)ひ百千万劫を経るとも亦 磨滅(マメツ)せず。」

そして、少しも善悪の報いは影や響きのようにその人に付き従って、毛筋ほどもくい違わないことを知らない。この因果の法は、たとえ百千万劫という長い時を経ても無くなることはないのである。」と。

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