深信因果(5)

あるいは人、あるいは狼(ロウ)、あるいは余趣(ヨシュ)のなかに、生得(ショウトク)にしばらく宿通(シュクツウ)をえたるともがらあり。しかあれども、明了(ミョウリョウ)の種子(シュウジ)にあらず、悪業(アクゴウ)の所感なり。

或いは人に、或いは狼に、或いは他の生命の中には、生まれながらに少し過去世を知り得る仲間もあります。しかしこれは悟りの智慧ではなく、悪業(悪行)の影響によるものです。

この道理、世尊ひろく人天(ニンデン)のために演説しまします、これをしらざるは疎学のいたりなり。

この因果の道理を、釈尊は広く人間界 天上界の人々の為に説いておられます。これを知らないのは、仏道を学ぶことが疎かだからです。

あはれむべし、たとひ一千生、一万生をしるとも、かならずしも仏法なるべからず。外道(ゲドウ)すでに八万劫(ハチマンゴウ)をしる、いまだ仏法とせず。わづかに五百生をしらん、いくばくの能にあらず。

哀れなことです、たとえ一千生、一万生を知っていても、それは必ずしも仏法の智慧ではないのです。外道には既に八万劫という長い時間を知っている者もありますが、それでもまだ仏法の智慧とはいえません。ですから、わずか五百生を知っているというだけでは、たいした能力ではないのです。

近代宋朝の参禅のともがら、もともくらきところ、ただ不落因果(フラク インガ)を邪見の説としらざるにあり。あはれむべし、如来の正法(ショウボウ)の流通(ルヅウ)するところ、祖祖正伝(ソソ ショウデン)せるにあひながら、撥無因果(ハツム インガ)の邪党とならん。

近代の宋国に於いて、禅に参ずる仲間たちの最も暗いところは、ただ「因果に落ちない」という説が誤った説であると知らないことにあります。哀れなことです。彼らは如来(釈尊)の正法が行き渡るところで、祖師から祖師へと正しく相伝された仏法に遇いながら、因果を無視する不正の徒となってしまったのです。

参学のともがら、まさにいそぎて因果の道理をあきらむべし。いま百丈(ヒャクジョウ)の不昧因果(フマイ インガ)の道理は、因果にくらからずとなり。

仏道を学ぶ仲間たちは、急いでこの因果の道理を明らかにしなさい。今、百丈禅師が言われた「因果をくらまさない」というのは、因果の道理に明るいということなのです。

しかあれば、修因感果のむねあきらかなり、仏仏祖祖の道なるべし。おほよそ仏法いまだあきらめざらんとき、みだりに人天のために演説することなかれ。

このように、「善悪の因を修すればそれに応じて善悪の果を感得する」 という教えは明白であり、仏祖の道なのです。ですから、およそ仏法をまだ明らかにしていない時には、みだりに人間界 天上界の人々のために法を説いてはいけません。

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