谿声山色(10)

又この日本国は、海外の遠方(オンポウ)なり。人のこころ至愚(シグ)なり。むかしよりいまだ聖人(ショウニン)うまれず、生知(ショウチ)うまれず、いはんや学道の実士まれなり。

又この日本国は、海外の遠方の地であり、人の心も大変愚かです。昔からまだ聖人は生まれておらず、天性の智者も生まれていません。まして仏道を学ぶ真実の人は希です。

道心をしらざるともがらに、道心をしふるときは、忠言(チュウゲン)の逆耳(ギャクニ)するによりて、自己をかへりみず、他人をうらむ。

道心を知らない者たちに道心を教える時には、忠言は耳に逆らうので、自己を省みず他人を恨むのです。

おほよそ菩提心(ボダイシン)の行願(ギョウガン)には、菩提心の発未発(ホツ ミホツ)、行道不行道(ギョウドウ フギョウドウ)を世人にしられんことをおもはざるべし、しられざらんといとなむべし。いはんやみづから口称(クショウ)せんや。

およそ菩提心の行願は、自分が菩提心を起こしているか否か、行じているか否かを、世の人に知られようと思わないことです。むしろ知られないように営みなさい。まして自ら口にしてはいけません。

いまの人は、実をもとむることまれなるによりて、身に行なく、こころにさとりなくとも、他人のほむることありて、行解相応(ギョウゲ ソウオウ)せりといはん人をもとむるがごとし。迷中又迷(メイチュウ ウメイ)、すなはちこれなり。この邪念、すみやかに抛捨(ホウシャ)すべし。

今の人は、真実を求めることが稀なので、身に修行無く、心に悟りが無くても、他人が褒めて「修行と智慧が具わっている」と言ってくれる人を求めているようです。迷いの上に迷いを重ねるとは、つまりこのことです。このような邪念はすぐに投げ捨てなさい。

学道のとき、見聞(ケンモン)することかたきは、正法の心術なり。その心術は、仏仏相伝(ブツブツ ソウデン)しきたれるものなり。これを仏光明(ブッコウミョウ)とも、仏心とも相伝するなり。

仏道を学ぶ時に、見聞きすることが難しいのは、正法を学ぶ心構えです。その心構えは、仏から仏へと相伝えられてきたものです。これを仏の光明として、また仏の心として相伝えて来たのです。

如来在世より今日にいたるまで、名利(ミョウリ)をもとむるを学道の用心とするににたるともがらおほかり。

釈尊の在世から今日に至るまで、名利を求めることを、仏道を学ぶ心得としているような者が大勢いました。

しかありしも、正師のおしへにあひて、ひるがえして正法をもとむれば、おのづから得道す。

そのような人であっても、正しい師の教えに会って、心を翻して正法を求めれば、自然に仏道を悟るのです。

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