谿声山色(13)

又むかしより、天帝(テンタイ)きたりて行者(ギョウジャ)の志気(シイキ)を試験し、あるひは魔波旬(マハジュン)きたりて行者の修道(シュドウ)をさまたぐることあり。

又昔から、帝釈天がやって来て修行者の志を試験したり、或いは悪魔が来て行者の修行を妨げることがあります。

これみな名利(ミョウリ)の志気はなれざるとき、この事ありき。大慈大悲(ダイズ ダイヒ)のふかく、広度衆生(コウド シュジョウ)の願の老大なるには、これらの障礙(ショウゲ)あらざるなり。

これらは皆、行者が名利の心を離れない時に、このような事があるのです。大慈大悲の心深く、衆生済度の誓願の久しく広大な人には、これらの障害はないのです。

修行の力量、おのづから国土をうることあり、世運の達せるに相似せることあり。かくのごとくの時節、さらにかれを辨肯(ベンコウ)すべきなり、かれに瞌睡(カッスイ)することなかれ。

また仏道修行の力によって、仏法が自然に国土に広まったり、世の中が一見仏法に叶うようになる場合があります。そのような時には、更にそれを弁えるべきです。それに油断して居眠りしてはいけません。

愚人(グニン)これをよろこぶ、たとへば癡犬(チケン)の枯骨(ココツ)をねぶるがごとし。賢聖(ケンショウ)これをいとふ、たとへば世人の糞穢(フンネ)をおづるににたり。

愚かな人は、これを喜ぶのです。例えば、愚かな犬が干からびた骨を喜んでなめるようなものです。賢人聖人はこれらの事を嫌うのです。例えば、世の人が糞便を恐れるようなものです。

おほよそ初心の情量は、仏道をはからふことあたはず、測量(シキリョウ)すといへども、あたらざるなり。初心に測量せずといへども、究竟(クキョウ)に究尽(グウジン)なきにあらず。

およそ初心の人の思慮分別では、仏道を推し量ることは出来ません。推し量っても当たらないものです。しかし、初心の人に推し量れなくても、修行を究めた人に、究め尽くすことが無い訳ではありません。

徹地の堂奥(ドウオウ)は、初心の浅識にあらず、ただまさに先聖(センショウ)の道をふまんことを行履(アンリ)すべし。このとき、尋師訪道(ジンシ ホウドウ)するに、梯山(テイザン)航海あるなり。

大悟徹底の所は、初心の浅い見識で窺うことは出来ません。ですから、もっぱら先の仏祖の道を踏んで修行しなさい。この時に、師を尋ね道を尋ねて、山を越え海を渡って行くのです。

導師をたづね、知識をねがふには、従天降下(ジュウテン コウゲ)なり、従地涌出(ジュウジ ユシュツ)なり。その接渠(セッコ)のところに、有情(ウジョウ)に道取(ドウシュ)せしめ、無情に道取せしむるに、身処(シンジョ)にきき、心処(シンジョ)にきく。

そうして導師を尋ね、師を望むなら、師は天から降りてくるのです。地から涌き出てくるのです。その彼を教え導くために、衆生に法を説かせ、石や木に法を説かせて、それを身体で聞き、心で聞くのです。

若将耳聴(ニャクショウニチョウ)は家常(カジョウ)の茶飯(サハン)なりといへども、眼処聞声(ゲンショ モンショウ)これ可必不必(カヒツ フヒツ)なり。

それをもし耳で聞けば、日常のありふれた事ですが、眼でその声を聞くということも無くはないのです。

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