谿声山色(2)

居士、あるとき仏印禅師(ブッチン ゼンジ)了元和尚(リョウゲン オショウ)と相見(ショウケン)するに、仏印さづくるに法衣(ホウエ) 仏戒等をもてす。居士つねに法衣を塔(タッ)して修道(シュドウ)しき。

東坡居士がある日、仏印禅師 了元和尚に会うと、仏印は法衣(袈裟)や仏戒等を授けました。そこで居士は、常にその法衣を身に着けて修行しました。

居士、仏印にたてまつる に無価(ムゲ)の玉帯(ギョクタイ)をもてす。ときの人いはく、凡俗所及(ボンゾク ショギュウ)の儀にあらずと。

居士はそのお礼として、仏印に貴重な玉飾りの帯を差し上げました。当時の人々はこの事を、とても凡人の及ぶ所ではないと言って讃えました。

しかあれば、聞谿悟道(モンケイ ゴドウ)の因縁、さらにこれ晩流(バンル)の潤益(ジュンヤク)なからんや。あはれむべし、いくめぐりか現身説法の化儀(ケギ)にもれたるがごとくなる。

それならば、居士の谿声を聞いて悟道したという因縁は、さらに晩学後進の者たちの利益とならないことがありましょうか。哀れに思うのは、我々が何回も、仏が姿を現わして法を説く、その教化から漏れてきたことです。

なにとしてかさらに山色を見、谿声をきく。一句なりとやせん、半句なりとやせん、八万四千偈なりとやせん。

それでは、どのようにして新たに山色を見、渓声を聞けばよいのでしょうか。一句としてでしょうか、半句としてでしょうか、それとも八万四千の偈文としてでしょうか。

うらむべし、山水にかくれたる声色(ショウシキ)あること。又よろこぶべし、山水にあらはるる時節因縁あること。舌相も懈倦(ケゲン)なし、身色(シンシキ)あに存没(ゾンモツ)あらんや。

恨みに思うことは、山水に隠れている仏の声と姿があることです。また喜ぶべきことは、山水に仏が現れる時節因縁があることです。その説法は倦むことを知らず、その姿も決して生滅することはないのです。

しかあれども、あらはるるときをやちかしとならふ、かくれたるときをやちかしとならはん。

しかし、仏の現れる時が仏と親しいと知るべきなのか、それとも、隠れている時が仏と親しいと知るべきなのでしょうか。

一枚なりとやせん、半枚なりとやせん、従来の春秋は山水を見聞(ケンモン)せざりけり、夜来の時節は山水を見聞することわづかなり。

東坡居士は、一つであろうと半分であろうと、これまでの春秋では山水の仏を見聞しなかったのですが、昨夜の時節には、山水の仏をほんの少しだけ見聞したのです。

いま学道の菩薩も、山流水不流より学入(ガクニュウ)の門を開すべし。

今、仏道を学ぶ菩薩(修行者)も、「山は流れ水は流れない」という所から仏道を学び始めなさい。

谿声山色(1)へ戻る

谿声山色(3)へ進む

ホームへ