かくのごとくなる皮袋(ヒタイ)、これ求法(グホウ)の志気甚深(シイキ ジンジン)なりし先哲なり。その先蹤(センショウ)、いまの人かならず参取(サンシュ)すべし。
このような人たちは、みな仏法を求める志の甚だ深い先哲たちです。その先例から、今の人も必ず学び取るようにしなさい。
いまも名利(ミョウリ)にかかはらざらん真実の参学は、かくのごときの志気をたつべきなり。
今も名利に係わらない真実の求道者は、このような志を立てるべきなのです。
遠方の近来は、まことに仏法を求覓(グミャク)する人まれなり。なきにはあらず、難遇(ナングウ)なるなり。
近来のインド遠方の地域では、本当に仏法を探し求める人は希です。無い訳ではありませんが会い難いのです。
たまたま出家児となり、離俗せるににたるも、仏道をもて名利のかけはしとするのみおほし。
たまたま出家の身となって世俗を離れたようでも、仏道を名利のために利用しているだけの者が多いのです。
あはれむべし、かなしむべし。この光陰(コウイン)ををしまず、むなしく黒暗業(コクアンゴウ)に売買(マイマイ)すること、いづれのときかこれ出離得道の期(ゴ)ならん。たとひ正師(ショウシ)にあふとも、真龍を愛せざらん。
哀れであり、悲しいことです。出家してもこの月日を大切にせず、空しく悪行に明け暮れていれば、何時 迷いを離れて仏道を悟ることが出来るのでしょうか。たとえ正法の師に会っても、真実の法を愛することは出来ないでしょう。
かくのごとくのたぐひ、先仏これを可憐憫者(カレンミンシャ)といふ。その先世に悪因あるによりてしかあるなり。
このような者たちを、釈尊は憐憫すべき者たちと言っています。その前世に悪因があるのでそうなるのです。
生(ショウ)をうくるに爲法求法(イホウ グホウ)のこころざしなきによりて、真法をみるとき真龍をあやしみ、正法にあふときいとはるるなり。
この世に生まれても、法の為に法を求めるという志がないので、真実の法を見てもその真実の姿を怪しみ、それで正法に会っても嫌われてしまうのです。
この身心骨肉、かつて従法而生(ジュウホウ ニショウ)ならざるによりて、法と不相応(フソウオウ)なり、法と不受用(フジュヨウ)なり。
何故なら、その身心骨肉が、一向に法から生まれたものでないので、法と相応せず、それで法を使用出来ないからです。