袈裟功徳(13)

商那和修尊者(ショウナワシュ ソンジャ)は、第三の附法蔵(フホウゾウ)なり。うまるるときより衣と俱生(クショウ)せり。この衣、すなはち在家のときは俗服なり、出家すれば袈裟となる。

商那和修尊者は、釈尊から第三代の正法を受け継いだ人です。この人は、生まれた時から衣を身に着けていました。その衣は、在家の時は俗服であり、出家すると袈裟になりました。

また鮮白比丘尼(センビャク ビクニ)、発願施氎(ホツガン セジョウ)ののち、生生(ショウジョウ)のところ、および中有(チュウウ)、かならず衣と俱生せり。

また鮮白比丘尼は、前世に発願して仏に衣を施してからは、生まれ変わる度に、そして生まれ変わる間にも、必ず衣を身に着けていました。

今日 釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)にあふたてまつりて出家するとき、生得(ショウトク)の俗衣、すみやかに転じて袈裟となる、和修尊者におなじ。

そして今日、釈尊にお会いして出家すると、生得の俗衣は、すぐに袈裟になりました。これは商那和修尊者の場合と同じです。

あきらかにしりぬ、袈裟は絹布等にあらざること。いはんや仏法の功徳よく身心諸法を転ずること、それかくのごとし。

これらのことから、明らかに知ることは、袈裟は絹や綿などではないということです。まして仏法の功徳が身心の全てを変えていくことは、このように明らかなのです。

われら出家受戒のとき、身心依正(シンジン エショウ)すみやかに転ずる道理あきらかなれど、愚蒙(グモウ)にしてしらざるのみなり。

我々が出家受戒すれば、身心の果報はたちまち変わるという道理は明らかなのですが、我々は愚かなので、気が付かないだけなのです。

諸仏の常法、ひとり和修鮮白に加して、われらに加せざることなきなり。随分(ズイブン)の利益(リヤク)、うたがうべからざるなり。かくのごとくの道理、あきらかに功夫参学(クフウ サンガク)すべし。

諸仏の不変の法は、商那和修と鮮白だけに与えて、我々に与えないということはありません。我々にも、分相応の利益があることを疑ってはなりません。このような道理を、はっきりと精進して学びなさい。

善来得戒(ゼンライ トッカイ)の披体(ヒタイ)の袈裟、かならずしも布にあらず、絹にあらず、仏化難思(ブッケ ナンシ)なり。衣裏(エリ)の宝珠(ホウジュ)は算沙(サンジュ)の所能(ショノウ)にあらず。

釈尊に「よく来た」と呼び掛けられて出家受戒した者が、その身に着けていた袈裟は、必ずしも綿や絹であるとは限りません。仏の教化は思量し難いものです。ですから衣の裏に隠れた宝珠は、経典の教えを無益に数え上げる学者の知る所ではないのです。

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