袈裟功徳(2)

まことに無量恒河沙(ムリョウ ゴウガシャ)の三千大千世界を統領せんよりも、仏衣現在(ブツエ ゲンザイ)の小国に、王としてこれを見聞(ケンモン)供養したてまつらんは、生死(ショウジ)のなかの善生(ゼンショウ)、最勝の生(ショウ)なるべし。

まことに無数の全世界を統治するよりも、この仏の袈裟の置かれている小国で、王としてこの袈裟を見聞し供養することの方が、生死の中では善き生であり、最も優れた生といえましょう。

仏化(ブッケ)のおよぶところ、三千界いづれのところか袈裟(ケサ)なからん。しかありといへども、嫡嫡面授(テキテキ メンジュ)して仏袈裟を正伝(ショウデン)せるは、ただひとり嵩岳(スウガク)の曩祖(ノウソ)のみなり。旁出(ボウシュツ)は仏袈裟をさづけられず。

仏の教化の及ぶところであれば、全世界の何処であろうと袈裟が伝えられることでしょう。しかしながら、嫡子から嫡子へと親しく仏袈裟を伝えてきた祖師は、ただ一人 嵩岳の達磨大師だけでした。傍系の弟子には仏袈裟を授けることはなかったのです。

二十七祖の旁出、跋陀婆羅菩薩(バダバラ ボサツ)の伝、まさに肇法師(ジョウ ホッシ)におよぶといへども、仏袈裟の正伝なし。震旦(シンタン)の四祖大師、また牛頭山(ゴヅサン)の法融禅師(ホウユウ ゼンジ)をわたすといへども、仏袈裟を正伝せず。

二十七祖 般若多羅(ハンニャタラ)尊者の傍系である跋陀婆羅菩薩の法は肇法師に伝えられましたが、仏袈裟は伝えませんでした。又、中国の四祖大師 大医道信禅師は、牛頭山の法融禅師を済度しましたが、仏袈裟を伝えることはありませんでした。

しかあればすなはち、正嫡(ショウテキ)の相承(ソウジョウ)なしといへども、如来の正法、その功徳むなしからず、千古万古みな利益広大なり。

しかし、仏袈裟を正統な嫡子として受け継いでいなくても、如来の正法は、その功徳が空しいわけではありません。永遠に皆広大な利益を及ぼすのです。

正嫡相承せらんは、相承なきとひとしかるべからず。しかあればすなはち、人天もし袈裟を受持せんは、仏祖相伝の正伝を伝受すべし。

仏袈裟を正統な嫡子として受け継いだ者は、袈裟を受け継いでいない者と同等ではありません。ですから、もし人々が袈裟を受けて護持しようと思うのなら、仏祖が親しく伝えて来た正しい伝統の袈裟を受けなさい。

印度 震旦、正法 像法(ゾウホウ)のときは、在家なほ袈裟を受持す。いま遠方辺土の澆季(ギョウキ)には、剃除鬚髪(テイジョ シュホツ)して仏弟子と称する、袈裟を受持せず、いまだ受持すべきと信ぜず、しらず、あきらめず、かなしむべし。いはんや体色量(タイ シキ リョウ)をしらんや。いはんや著用の法をしらんや。

インドや中国で正法が行われている時代、又はそれに準じた法が行われている時代には、在家の者でさえ袈裟を受けて護持していました。今日、遠方辺地にある末世の我が国では、剃髪して仏弟子と名のる者であっても袈裟を護持せず、袈裟を護持すべきものと信ぜず、袈裟を知らず、袈裟のことを明らかにしていません。悲しむべきことです。まして袈裟に使う布、袈裟の形、袈裟の大きさについて知らず、更に着用の作法を知らないことは言うまでもありません。

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