袈裟功徳(25)

この三衣、かならず護持すべし。また僧伽胝衣(ソウギャチエ)に六十条の袈裟あり、かならず受持すべし。

出家は、この三種の衣(袈裟)を必ず護持しなさい。又、僧伽胝衣(大衣)には六十条の袈裟もあります。これらの袈裟を必ず受けて護持するようにしなさい。、

おほよそ、八万歳より百歳にいたるまで、寿命の増減にしたがうて、身量の長短あり、八万歳と一百歳と、ことなることありといふ、また平等なるべしといふ。

およそ人の寿命が、過去の八万歳の時代から現在の百歳の時代までに、その寿命の増減によって身体の大きさには長短があり、八万歳の時代と百歳の時代とでは、身体の大きさが異なると言います。又、身体の大きさは皆同じであるとも言います。

そのなかに、平等なるべしといふを正伝(ショウデン)とせり。仏と人と、身量はるかにことなり。人身(ニンシン)ははかりつべし、仏身はつひにはかるべからず。

その中で、人の身体の大きさは、皆同じであるというのが正しく伝えられた説とされます。しかし、仏と人とでは、身体の大きさが遙かに異なるものであり、人の身体は量ることが出来ますが、仏の身体は全く量ることが出来ないのです。

このゆゑに、迦葉仏(カショウブツ)の袈裟、いま釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)(ヂャク)しましますに、長(ナガキ)にあらず、ひろきにあらず。今(コン)釈迦牟尼仏の袈裟、弥勒如来(ミロク ニョライ)著しましますに、みじかきにあらず、せばきにあらず。

このことにより、過去の迦葉仏の袈裟を、現在の釈迦牟尼仏が身に着けても、長すぎることもなく、広すぎることもなく、現在の釈迦牟尼仏の袈裟を、未来の弥勒仏が身に着けても、短すぎることも狭いこともないのです。

仏身の長短にあらざる道理、あきらかに観見(カンケン)し、決断し、照了(ショウリョウ)し、警察(キョウサツ)すべきなり。

このように、仏の身体は長くも短くもないという道理を、はっきりと見極め、判断し、了解して、注意深く調べることです。

梵王(ボンノウ)のたかく色界(シキカイ)にある、その仏頂をみたてまつらず。目連(モクレン)はるかに光明幡世界(コウミョウバン セカイ)にいたる、その仏声(ブッショウ)をきはめず。遠近(オンゴン)の見聞(ケンモン)ひとし、まことに不可思議なるものなり。

梵天王は、天上の高い場所に居ながら、仏の頭頂を見ることが出来ず、仏弟子の目連は、遙か遠くの光明幡世界まで行きましたが、仏の声の届く所を極めることが出来ませんでした。このように、遠くであっても近くであっても、同じように仏を見聞できることは、まことに不思議なことです。

如来の一切の功徳、みなかくのごとし。この功徳を念じたてまつるべし。

如来のすべての功徳も、皆この通りであります。この功徳を心に念じることです。

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