袈裟功徳(36)

大宋 嘉定(カテイ)十七年 癸未(ミズノト ミ)十月中に、高麗僧(コウライ ソウ)二人ありて、慶元府(ケイゲンフ)にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。

大宋国の嘉定十七年十月に、高麗(朝鮮)の僧二人が慶元府にやって来た。一人は智玄という名で、もう一人は景雲といった。

この二人、しきりに仏経の義を談ずといへども、さらに文学士(モンガクシ)なり。しかあれども、袈裟なし、鉢盂(ハツウ)なし、俗人(ゾクニン)のごとし。

この二人は、しきりに仏や経の道理を論じていたが、それは経文を学ぶ僧であった。しかし、僧の護持すべき袈裟が無く、鉢盂(食事に使う鉢)が無いことは、俗人と変わらなかった。

あはれむべし、比丘形(ビクギョウ)なりといへども、比丘法(ビクホウ)なし。小国辺地のしかあらしむるならん。日本国の比丘形のともがら、他国にゆかんとき、またかの智玄等にひとしからん。

哀れなことに、彼らは僧形であっても、僧としての基本を身に着けていなかったのである。きっと遠方の小国辺地の僧だからであろう。日本国の僧形の仲間も、他国へ行けば、又この智玄等と同様であろう。

釈迦牟尼仏、十二年中頂戴してさしおきましまさざりき。すでに遠孫(オンソン)なり、これを学すべし。いたづらに名利(ミョウリ)のために、天を拝し神を拝し、王を拝し臣を拝する頂門(チョウモン)をめぐらして、仏衣頂戴に回向(エコウ)せん、よろこぶべきなり。

釈尊は、苦行の十二年間、仏袈裟を頭上に押し頂いて大切にされました。既に我々は釈尊の遠孫なのですから、これに学びなさい。我々は、徒らに名利のために天を拝し、神を拝し、王を拝し、臣を拝する考えを改めて、仏袈裟を頭上に押し頂くことに心を向けることを、喜ぶべきなのです。

ときに仁治元年 庚子(カノエ ネ)開冬日、在観音導利興聖宝林寺示衆。

時に仁治元年、冬の初めの日、観音導利興聖宝林寺で衆僧に説示する。

建長七年 乙卯(キノト ウ)夏安居(ゲアンゴ゙)日、令義演書記書写畢。同七月初五日一校了、以御草案為本。

建長七年、夏安居の日、義演書記に書写させ終わる。同年七月五日、一度校正し終わり、御草案を本にする。

建治元年 丙子(ヒノエ ネ)五月二十五日、書写了。

建治元年五月二十五日、書写し終わる。

袈裟功徳おわり。

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