四馬(2)

(しめ)

  雑阿含経(ゾウ アゴンギョウ)に曰(イハ)く、
「仏 比丘
(ビク)に告げたまはく、四種の馬 有り、
一つには鞭影
(ベンエイ)を見て、即便(スナハ)ち驚悚(キョウショウ)して、御者(ギョシャ)の意に随ふ。
二つには毛に触るれば、便
(スナハ)ち驚悚して、御者の意に随ふ。
三つには肉に触れて、然
(シカ)して後、乃(スナハ)ち驚く。
四つには骨に徹して、然して後 方
(ハジ)めて覚(オドロ)く。

  雑阿含経には次のように説かれている。
「仏(釈尊)は、比丘(出家)たちに告げられた。馬には四種類がある。
一は、鞭の影を見て、驚いて御者の意に随う馬。
二は、鞭が毛に触れて、驚いて御者の意に随う馬。
三は、鞭が肉に触れて驚く馬。
四は、鞭が骨に達してやっと驚く馬である。

初めの馬は、他の聚落(ジュラク)の無常を聞いて、即ち能(ヨ)く厭(エン)を生ずるが如し。
次の馬は、己
(オノ)が聚落の無常を聞いて、即ち能く厭を生ずるが如し。
三の馬は、己が親の無常を聞いて、即ち能く厭を生ずるが如し。
四の馬は、猶
(ナホ)己が身の病苦によりて、方めて能く厭を生ずるが如し。」

初めの馬は、よその村人の死を聞いて、世の無常を厭う心を起こすようなものである。
次の馬は、自分の村人の死を聞いて、世の無常を厭う心を起こすようなものである。
第三の馬は、自分の親の死を聞いて、世の無常を厭う心を起こすようなものである。
第四の馬は、自分自身の病苦によって、漸く世の無常を厭う心を起こすようなものである。」と。

  これ阿含(アゴン)の四馬(シメ)なり。仏法を参学するとき、かならず学するところなり。真善知識(シン ゼンチシキ)として人中天上(ニンチュウ テンジョウ)に出現し、ほとけのつかひとして祖師なるは、かならずこれを参学しきたりて、学者のために伝授するなり。しらざるは人天(ニンデン)の善知識にあらず。

  これが阿含経の四馬(四種類の馬)の譬えです。仏法を学ぶ時には、誰もが必ず学ぶべきものです。真の正法の師として人間界や天上界に出現し、仏の使いとして祖師となった者であれば、必ずこの四馬を学んでいて、仏道を学ぶ者のために伝授するのです。ですから、これを知らない者は人間界 天上界の師ではありません。

学者もし厚殖善根(コウジキ ゼンゴン)の衆生(シュジョウ)にして、仏道ちかきものは、かならずこれをきくことをうるなり。仏道とほきものは、きかず、しらず。しかあればすなはち、師匠いそぎとかんことをおもふべし、弟子いそぎきかんとこひねがふべし。

仏道を学ぶ者が、もし過去に厚く善根を植えた人々で、仏道に親しければ、必ずこの四馬を聞くことが出来るのです。仏道に疎遠な者は、四馬を聞かず、知ることもないのです。ですから、師匠は急いで説こうと思いなさい。弟子は急いで聞こうと願いなさい。

いま生厭(ショウエン)といふは、
「仏、一音
(イットン)を以て法を演説するに、衆生 類(ルイ)に随って各(オノオノ)(ゲ)することを得(ウ)。或(アルイ)は恐怖(クフ)する有り、或は歓喜し、或は厭離(エンリ)を生じ、或は疑(ギ)を断ず。」なり。

先ほどの「世の無常を厭う心を起こす」というのは、
「仏は、すべての人々に対して同じように法を説かれるが、人々はそれぞれの因縁に随って、おのおのが理解する。ある者は恐れの心を抱き、ある者は歓喜し、ある者は無常の世を厭い離れる心を起こし、ある者は疑いを断つのである。」ということです。

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