菩提薩埵四摂法(3)

ほとけののたまはく、
「其の自身に於いても尚ほ受用すべし、何
(イカ)に況や能(ヨ)く父母妻子に与えんをや。」

釈尊のおっしゃるには、
「その人自身にもまた布施をしなさい。まして父母や妻子なら、なおさら与えなさい。」と。

しかあればしりぬ、みづからもちゐるも布施の一分なり、父母妻子にあたふるも布施なるべし。

これによって知ることは、自身に施すことも布施の一つであり、父母妻子に与えることも布施であるということです。

もしよく布施に一塵(イチジン)を捨(シャ)せんときは、みづからが所作なりといふとも、しづかに随喜(ズイキ)すべきなり。

もし布施のために塵一つでも捨てた時には、それが自分の行いであっても、静かにその事を喜ぶべきです。

諸仏のひとつの功徳をすでに正伝(ショウデン)しつくれるがゆゑに。菩薩の一法をはじめて修行するがゆゑに。

何故なら、諸仏の功徳の一つを、すでに正しく伝え行ったからであり、又、菩薩の法の一つを改めて修行したからです。

転じがたきは衆生のこころなり。一財をきざして衆生の心地(シンチ)を転じはじむるより、得道にいたるまでも転ぜんとおもふなり。

変え難きは人々の心です。一つの財をきっかけにして人々の心を変え始め、仏道の悟りに至るまで変えていこうと願うのです。

そのはじめ、かならず布施をもてすべきなり。かるがゆゑに、六波羅蜜(ロクハラミツ)のはじめに、檀波羅蜜(ダンバラミツ)あるなり。

その始めには、必ず布施をするべきなのです。そのために、六波羅蜜(菩薩の六つの修行)の最初に檀波羅蜜(布施)があるのです。

心の大小ははかるべからず、物の大小もはかるべからず。されども、心転物(シンテンモツ)のときあり、物転心(モツテンシン)の布施あるなり。

心の大小は量ることが出来ません。物の大小も量ることが出来ません。しかし、心が物を動かす時があり、また物が心を動かすという布施があるのです。

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