菩提薩埵四摂法(6)

同事(ドウジ)といふは、不違(フイ)なり。自にも不違なり、他にも不違なり。たとへば、人間の如来は人間に同ぜるがごとし。

同事(事を同じくす)とは、違わないことです。自分にも違わず、他にも違わないことです。たとえば、人間の如来である釈尊は、世の人間と同化していたようにです。

人界(ニンガイ)に同ずるをもてしりぬ、同余界(ドウヨカイ)なるべし。同事をしるとき、自他一如(ジタ イチニョ)なり。

如来が、人間の世界に同化したことで知られることは、如来は他の世界にも同化したということです。同事を知る時、自他は一如なのです。

かの琴詩酒(キンシシュ)は、人をともとし、天をともとし、神をともとす。人は琴詩酒をともとす。

かの琴や詩や酒は、人を友とし、天を友とし、神を友としています。また人は、琴や詩や酒を友としています。

琴詩酒は琴詩酒をともとし、人は人をともとし、天は天をともとし、神はかみをともとすることわりあり。これ同事の習学なり。

さらに琴や詩や酒は、琴や詩や酒を友とし、人は人を友とし、天は天を友とし、神は神を友とするという道理があります。これが同事を学ぶことです。

たとへば、事(ジ)といふは、儀(ギ)なり、威(イ)なり、態(タイ)なり。

たとえば、同事(事を同じくす)の事とは、姿であり、威儀であり、態度のことです。

他をして自に同ぜしめてのちに、自をして他に同ぜしむる道理あるべし。自他はときにしたがふて無窮(ムキュウ)なり。

他を自分に同ぜしめて後に、自分を他に同ぜしめるという道理があります。自他の関係は、時に応じて無窮なのです。

管子(カンシ)に云(イワ)く、
海は水を辞せず、故に能
(ヨ)く其の大なることを成(ナ)す。
山は土を辞せず、故に能く其の高きことを成す。
明主
(メイシュ)は人を厭(イト)はず、故に能く其の衆を成す。

管子にいう、
「海は水を拒まないので大海となる。
 山は土を拒まないので高山となる。
 明主(優れた君主)は人を嫌わないので衆が集まる。」と。

しるべし、海の水を辞せざるは同事なり。さらにしるべし、水の海を辞せざる徳も具足(グソク)せるなり。

知ることです、海が水を拒まないのは同事なのです。さらに、水は海を拒まない徳も具えていることを知りなさい。

このゆゑに、よく水あつまりて海となり、土かさなりて山となるなり。

このために、よく水が集まって海となり、また土が重なって山となったのです。

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