四禅比丘(11)

(しぜんびく)

荘子(ソウシ)(イ)はく、「貴賤苦楽(キセン クラク)、是非得失(ゼヒ トクシツ)、皆是自然(ミナ コレ ジネン)なり。」

荘子の言うことには、「貴賤や苦楽、是非や得失は、すべて自然である。」と。

この見(ケン)、すでに西国(サイゴク)の自然見(ジネンケン)の外道(ゲドウ)の流類(ルルイ)なり。貴賤苦楽、是非得失、みなこれ善悪業(ゼンアクゴウ)の感ずるところなり。

この見解は、まさしく西国インドの、因果を否定する自然見の外道の部類の説と同じです。貴賤 苦楽、是非 得失は、すべて善悪の行為の結果なのです。

満業(マンゴウ)、引業(インゴウ)をしらず、過世(カセ)、来世(ライセ)をあきらめざるがゆゑに、現在にくらし、いかでか仏法にひとしからん。

荘子は、貴賤 苦楽などを招く行いや、同じく人間界に生まれる行いについて知らず、過去世や来世のことを明らかにしていないので、現在のことにも暗いのです。これでどうして仏法と等しいといえましょうか。

あるがいはく、
「諸仏如来ひろく法界
(ホッカイ)を証するゆゑに、微塵法界(ミジン ホッカイ)、みな諸仏の所証なり。しかあれば、依正二報(エショウ ニホウ)ともに如来の所証となりぬるがゆゑに、山河大地(センガ ダイチ)、日月星辰(ニチガツ ショウシン)、四倒三毒(シトウ サンドク)、みな如来の所証なり。山河をみるは如来をみるなり、三毒四倒、仏法にあらずといふことなし。微塵をみるは法界をみるにひとし、造次顛沛(ゾウジ テンパイ)、みな三菩提(サンボダイ)なり。これを大解脱(ダイゲダツ)といふ、これを単伝直指(タンデン ジキシ)の祖道となづく。」

ある人が言うには、
「諸仏は、広くあらゆる世界を悟ったのであるから、微塵の世界も、すべて諸仏の悟りの世界である。そのために、人間として生まれたことも、生まれた場所も、共に仏の悟りの世界となったのであるから、山河大地や太陽 月 星、凡夫の四顚倒(四つの顚倒した考え。世間を常住不変と見、感受を楽とし、我ありとし、肉体を清浄と見ること。)や、三毒(貪り、怒り、愚かさなどの煩悩)も、すべて仏の悟りの世界なのである。山河を見ることは仏を見ることであり、三毒や凡夫の四顚倒も、仏法でないものはない。微塵を見ることは、あらゆる世界を見ることと同じであり、急迫困窮することも、すべて仏の悟りなのである。これを大いなる解脱といい、これを祖師から祖師へと端的に伝えられた仏道と呼ぶのである。」と。

かくのごとくいふともがら、大宋国(ダイソウゴク)に稲麻竹葦(トウマ チクイ)のごとく、朝野(チョウヤ)に遍満(ヘンマン)せり。しかあれども、このともがら、たれ人の児孫といふことあきらかならず、おほよそ仏祖の道をしらざるなり。

このように言う出家が、大宋国には数え切れないほど天下に満ち溢れています。しかしこの者たちは、何人の法の児孫なのか明らかではなく、およそ仏祖の道というものを知らないのです。

たとひ諸仏の所証となるとも、山河大地たちまちに凡夫の所見なかるべきにあらず。諸仏の所証となる道理をならはず、きかざるなり。

たとえ諸仏が、あらゆる世界を悟ったとしても、山河大地には、すぐに凡夫の考えがなくなる訳ではありません。何故なら、凡夫は諸仏の悟った道理を学んでいないし、聞いていないからです。

なんぢ微塵をみるは法界をみるにひとしといふ、民の王にひとしといはんがごとし。またなんぞ法界をみて微塵にひとしといはざる。

前の説を唱える者に私は言おう、
「お前は、微塵を見ることは、あらゆる世界を見ることと同じであると言うが、それは、庶民のことを国王と同じであると言うようなものである。又、どうしてあらゆる世界を見て微塵と同じであると言わないのか。」と。

もしこのともがらの所見を仏祖の大道(ダイドウ)とせば、諸仏出世すべからず、祖師出現すべからず、衆生得道(シュジョウ トクドウ)すべからざるなり。たとひ生即無生(ショウ ソク ムショウ)と体逹(タイダツ)すとも、この道理にあらず。

もしこの者の考えを仏祖の大道とするならば、諸仏は世に出現しなかったであろうし、祖師も世に出現しなかったであろうし、人々も仏道を得ることは無かったでしょう。たとえ生とは無生であると物事の実相を究め尽くしたとしても、この者の言う道理ではないのです。

四禅比丘(12)へ進む

四禅比丘(10)へ戻る

ホームへ