四禅比丘(13)

(しぜんびく)

孔子(コウシ)の書に生知者(ショウチシャ)あり、仏教には生知者なし。仏法には舎利(シャリ)の説あり、孔老、舎利の有無(ウム)をしらず。ひとつにして混雑せんとおもふとも、広説(コウセツ)の通塞(ツウソク)つひに不得(フトク)ならん。

孔子の書に生知者(生まれながらに知っている者)という言葉がありますが、仏教には生知者という言葉はありません。仏法には舎利(仏の遺骨)の説がありますが、孔子老子は舎利の有無を知りません。これを一つに混同しようと思っても、その広説の通用は遂に得られないのです。

論語(ロンゴ)に云(イ)はく、
「生まれながらにして之
(コレ)を知るは上(ジョウ)なり、学んで之を知るは次なり、困(クル)しみて之を学ぶは又 其(ソ)の次なり、困しみて学ばざるは、民 斯(コレ)を下(ゲ)と為す。」

論語には、
「生まれながらにこれを知っている者は上等の人である。学んでこれを知る者は次の人である。行きづまってからこれを学ぶ者は、又その次の人である。行きづまっても学ばない者は、人として下等である。」とあります。

もし生知あらば、無因(ムイン)のとがあり。仏法には無因の説なし。四禅比丘は、臨命終(リン ミョウジュウ)の時、たちまちに謗仏(ボウブツ)の罪に堕(ダ)す。

もし生まれながらに知っているというのであれば、因果を無視する咎があります。仏法には無因果の説はありません。そのために四禅比丘(四禅定を得たことで、阿羅漢を得たと思った比丘。)は、臨終の時に仏を謗った罪により、すぐに阿鼻地獄に堕ちたのです。

仏法をもて孔老の教にひとしとおもはん、一生のうちより謗仏の罪ふかかるべし、学者はやく仏法と孔老と一致なりと邪計(ジャケイ)する解(ゲ)をなげすつべし。この見(ケン)たくはへてすてずば、つひに悪趣(アクシュ)におつべし。

仏法を、孔子老子の教えと同じと思うことは、一生の内から仏を謗る罪が深いと言うべきです。仏法を学ぶ者は、仏法と孔子老子の教えは一致するという邪まな考えを早く投げ捨てなさい。この考えを蓄えて捨てなければ、遂には地獄、餓鬼、畜生などの悪趣(悪道)に堕ちることになるのです。

学者あきらかにしるべし、孔老は三世の法をしらず、因果の道理をしらず、一洲(イッシュウ)の安立(アンリュウ)をしらず、いはんや四洲の安立をしらんや。

仏法を学ぶ者は明白に知りなさい。孔子老子は三世(過去 現在 未来)の法を知らず、因果の道理を知らず、一つの世界の安心立命を知らないのです。ましてや全世界の安心立命を知っているでしょうか。

六天のこと、なほしらず、いはんや三界九地の法をしらんや。小千界をしらず、中千界をしるべからず。三千大千世界をみることあらんや、しることあらんや。

六天(欲界の六天神)のことを又知らず、ましてや三界(凡夫の住む欲の世界、物の世界、心の世界。)や九地(九つの凡夫の境地)の法を知っているでしょうか。小千界(須弥山を中心とする天上界と地上界の一団を一世界として、それらが千 集まった世界。)を知らず、中千界(小千界が千 集まった世界。)を知らないのです。ましてや三千大千世界(中千界が千 集まった世界を大千世界といい、小千界と中千界と大千世界を合わせて三千大千世界という。宇宙のこと。)を見たことがありましょうか、知っているでしょうか。

振旦(シンタン)一国に、なほ小臣(ショウジン)にして帝位(テイイ)にのぼらず、三千大千世界に王たる如来に比(ヒ)すべからず。如来は梵天(ボンテン)、帝釈(タイシャク)、転輪聖王(テンリンジョウオウ)等、昼夜に恭敬侍衛(クギョウ ジエ)し、恆時(コウジ)に説法を請(ショウ)したてまつる。孔老かくのごとくの徳なし、ただこれ流転(ルテン)の凡夫(ボンプ)なり。

中国 一国に、小臣のままで帝位に上らなかった孔子老子と、三千大千世界(宇宙)の王である如来(仏)とを比べてはいけません。如来は、天界の梵天や帝釈天、統治者の王である転輪聖王などが昼夜に敬って護衛し、常に説法を請い求めるのです。孔子老子にこのような徳はなく、ただの生死流転する凡夫なのです。

いまだ出離解脱(シュツリ ゲダツ)のみちをしらず、いかでか如来(ニョライ)のごとく、諸法実相(ショホウ ジッソウ)を究尽(グウジン)することあらん。もしいまだ究尽せずば、なにによりてか世尊(セソン)にひとしとせん。孔老 内徳(ナイトク)なし、外用なし、世尊におよぶべからず。三教一致の邪説をはかんや。

まだ生死を出離解脱する道を知らないのであり、それでどうして如来のように諸法実相(すべてのものは、そのまま真実の姿である)を究め尽くすことが出来ましょうか。もしまだ究め尽くしていないのなら、何をもって世尊(仏)と同じであると言うのでしょうか。孔子老子には内徳が無く、外の働きも無いのであり、世尊には及ばないのです。ですから、三教(仏教 儒教 道教)の教えは一致するというような邪説を言ってはいけません。

孔老、世界の有辺際(ウヘンザイ)、無辺際(ムヘンザイ)を通逹(ツウダツ)すべからず。広をしらずみず、大をしらずみざるのみにあらず、極微色(ゴクミシキ)をみず、刹那量(セツナリョウ)をしるべからず、世尊あきらかに極微色をみ、刹那量をしらせたまふ、いかにしてか孔老にひとしめたてまつらん。

孔子老子は、世界の有限、無限を詳しく知らないので、世界の広さ大きさを知らないし見たことも無いだけでなく、極微の世界も見ていないし、刹那の分量も知らないのです。しかし世尊は、はっきりと極微の世界を見ているし、刹那の分量を知っているのです。これでどうして孔子老子と同等にすることが出来ましょうか。

孔老、荘子、恵子(ケイシ)等は、ただこれ凡夫なり、なほ小乗の須陀洹(シュダオン)におよぶべからず。いかにいはんや第二、第三、第四の阿羅漢(アラカン)におよばんや。

孔子や老子、荘子、恵子などは、ただの凡夫であり、小乗の最初の悟りである須陀洹にさえ及ばないのです。ましてその第二の悟り、第三の悟り、第四の悟りである阿羅漢には到底及ばないのです。

四禅比丘(14)へ進む

四禅比丘(12)へ戻る

ホームへ