四禅比丘(2)

(しぜんびく)

この比丘(ビク)を称して四禅比丘といふ、または無聞比丘(ムモン ビク)と称す。四禅をえたるを四果(シカ)と僻計(ヘキケイ)せることをいましめ、また謗仏(ボウブツ)の邪見(ジャケン)をいましむ。人天大会(ニンデン ダイエ)みなしれり。

この比丘(出家)を名付けて四禅比丘と言い、又は無聞比丘(教えを聞かない比丘)と呼んでいます。釈尊は、四禅(四つの禅定)を得たことで、四果(四つの聖者の悟り)を得たと誤って考えることを戒め、又 仏を謗る邪念を戒めています。このことは、釈尊の人間界天上界の大法会の人々は皆知っています。

如来在世(ニョライ ザイセ)より今日にいたるまで、西天東地(サイテン トウチ)、ともに是(ゼ)にあらざるを是(ゼ)と執せるをいましむとして、四禅をえて四果とおもふがごとしとあざける。

釈尊が世に在りし時から今日に至るまで、インドや中国に於て、正しからざることを正しいと執する人を戒める立場から、「この比丘は四禅を得て四果を得たと思ったようだ。」と嘲笑しているのです。

この比丘の不是(フゼ)、しばらく略して挙(コ)するに三種あり。第一には、みづから四禅と四果とを分別(フンベツ)するにおよばざる無聞(ムモン)の身ながら、いたづらに師をはなれて、むなしく阿蘭若(アランニャ)に独処す。さひはひにこれ如来在世なり、つねに仏所に詣(ケイ)して、常恆(ジョウゴウ)に見仏聞法(ケンブツ モンポウ)せば、かくのごとくのあやまりあるべからず。

この比丘の誤りを略説すれば三つあります。第一は、自ら四禅と四果の違いを判断出来ない不勉強の身でありながら、無益にも師から離れて、空しく閑静な場所に一人住んでいたことです。幸いにも釈尊が世に居られたのですから、常に釈尊の所に参って、常々に法を聞いていれば、このような誤りはなかったのです。

しかあるに、阿蘭若に独処して、仏所に詣せず、つねに見仏聞法せざるによりてかくのごとし。たとひ仏所に詣せずといふとも、諸大阿羅漢(ショダイアラカン)の処にいたりて、教訓を請(ショウ)すべし。いたづらに独処する、増上慢(ゾウジョウマン)のあやまりなり。

それなのに、閑静な場所に一人住んで釈尊の所に参らず、常に法を聞かないのでこのようになったのです。たとえ釈尊の所に参らずとも、多くの優れた阿羅漢(仏弟子最高の聖者)の所に行って教えを請うべきです。教えを聞かずに無益に一人で住んでいることは、慢心の誤りなのです。

第二には、初禅(ショゼン)をえて初果(ショカ)とおもひ、二禅をえて第二果とおもひ、三禅をえて第三果とおもひ、四禅をえて第四果とおもふ、第二のあやまりなり。

第二の誤りは、初禅(最初の禅定)を得て初果(須陀洹の悟り)を得たと思い、二禅(第二の禅定)を得て第二果(斯陀含の悟り)を得たと思い、三禅(第三の禅定)を得て第三果(阿那含の悟り)を得たと思い、四禅(第四の禅定)を得て第四果(阿羅漢の悟り)を得たと思ったことです。これが第二の誤りです。

初二三四禅の相と、初二三四果の相と、比類(ヒルイ)におよばず、たとふることあらんや。これ無聞のとがによれり。師につかへず、くらきによれるとがなり。

初禅、二禅、三禅、四禅の相と、初果、二果、三果、四果の相は比べることが出来ないし、譬えることも出来ません。これを知らないことは、教えを聞かない咎によるものであり、師に仕えず道理に暗いことによる咎なのです。

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