四禅比丘(4)

(しぜんびく)

この比丘、はじめ生見(ショウケン)のあやまりあれど、殺害(セツガイ)の狼藉(ロウゼキ)をみるにおそりを生ず。ときにわれ羅漢(ラカン)にあらずとおもふ。なほ第三果なるべしとおもふあやまりあり。のちに細滑(サイカツ)の想によりて、愛欲心を生ずるに、阿那含(アナゴン)にあらずとしる。

この比丘(出家)は、初め四禅を得て四果を得たと思う我見の誤りがありましたが、賊が殺害狼藉する様子を見て恐怖の心を起こし、その時に自分は一切の煩悩を滅ぼした阿羅漢ではないと思いました。しかし依然として、自分はきっと欲望の誘惑を断った第三果の阿那含であろうと思う誤りがありました。後に娘の滑らかな肌に引かれて愛欲の心を起こし、自分は阿那含ではないことを知りました。

さらに謗仏(ボウブツ)のおもひを生ぜず、謗法(ボウホウ)のおもひなし、聖教(ショウギョウ)にそむくおもひあらず。四禅比丘にはひとしからず。この比丘は、聖教を習学せるちからあるによりて、みづから阿羅漢(アラカン)にあらず、阿那含(アナゴン)にあらずとしるなり。

このように、決して仏を謗る思いを起こさず、法を謗る思いもなく、聖者の教えに背く思いも無かったことは、前の四禅比丘と同じではありませんでした。この比丘は、聖者の教えを学ぶ力があったので、自ら阿羅漢ではないと知り、阿那含ではないと知ることができたのです。

いまの無聞(ムモン)のともがらは、阿羅漢はいかなりともしらず、仏はいかなりともしらざるがゆゑに、みづから阿羅漢にあらず、仏にあらずともしらず、みだりにわれは仏なりとのみおもひいふは、おほきなるあやまりなり、ふかきとがあるべし。学者まづすべからく、仏はいかなるべしとならふべきなり。

教えを聞いたことのない今の出家は、阿羅漢とはどういうものかとも、仏とはどういうものかとも知らないために、自分は阿羅漢でも仏でもないことを知らずに、みだりに自分は仏であるとだけ思って人に言うことは、大きな誤りであり深い咎です。仏道を学ぶ者は、先ず須らく仏とはどういうものであるかを学ぶべきなのです。

古徳(コトク)(イ)はく、「聖教を習ふ者は、薄(ホボ)次位(ジイ)を知る。縦(タト)ひ逾濫(ユラン)を生ずとも、亦(マタ)開解(カイゲ)し易し。」

古人の言葉に、「聖者の教えを学んだ者であれば、大体の修行の位を知っている。だから、たとえ誤った考えを起こしても、そのことに目覚め易いのである。」とあります。

まことなるかな、古徳の言。たとひ生見のあやまりありとも、すこしきも仏法を習学せらんともがらは、みづからに欺誑(ゴオウ)せられじ、他人にも欺誑せられじ。

この古人の言葉は真実なのです。たとえ我見の誤りがあっても、少しでも仏法を学んだ人であれば、自分に欺かれることはなく、他人にも欺かれることはないのです。

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