四禅比丘(9)

(しぜんびく)

  清浄法行経(ショウジョウ ホウギョウ キョウ)に云(イ)はく、
「月光菩薩
(ガッコウ ボサツ)、彼(カシコ)に顔回(ガンカイ)と称(ショウ)し、光浄菩薩(コウジョウ ボサツ)、彼に仲尼(チュウジ)と称し、迦葉菩薩(カショウ ボサツ)、彼に老子(ロウシ)と称す。云々(ウンヌン)。」

清浄法行経には、
「月光菩薩は、中国では孔子の門人の顔回と呼ばれ、光浄菩薩は、中国では仲尼(孔子の別名)と呼ばれ、迦葉菩薩は、中国では老子と呼ばれている。云々。」と説かれています。

むかしより、この経の説を挙(コ)して、孔子(コウシ)老子等も菩薩なれば、その説ひそかに仏説におなじかるべしといひ、また仏のつかひならん、その説おのづから仏説ならんといふ。この説みな非なり。

中国では、昔からこの経の説によって、孔子や老子なども菩薩であるから、その説く所も、暗に仏の説と同じであろうと言われ、また孔子老子は仏の使者であろうから、その説も自ずから仏の説であろうと言われています。しかしこのような説は皆誤りです。

古徳云はく、
「諸
(モロモロ)の目録に準ずるに、皆 此(コ)の経を推(オ)して、以て疑偽(ギギ)と為(ナ)す。云々。」

古聖はこの経について、
「多くの先人の目録を見ると、皆この経を偽経と推定している。云々。」と言っています。

いまこの説によらば、いよいよ仏法と孔老とことなるべし。すでにこれ菩薩なり、仏果にひとしかるべからず。

この古聖の説によれば、まさしく仏法と孔子老子の説とは異なっているということです。また、現に孔子老子が菩薩であれば、仏の位とは同等でありません。

また和光応迹(ワコウ オウシャク)の功徳(クドク)は、ひとり三世諸仏菩薩の法なり、俗塵凡夫(ゾクジン ボンプ)の所能(ショノウ)にあらず。実業(ジツゴウ)の凡夫、いかでか応迹(オウシャク)に自在(ジザイ)あらん。

又、世俗に同化し、人々に応じて救うという功徳は、ただ三世(過去 現在 未来)の仏や菩薩だけが具えている法であり、俗世の凡夫に出来ることではありません。この世で実際に善悪の報いを受けている凡夫に、どうして人々に応じて救う自在な働きがありましょうか。

孔老いまだ応迹の説なし、いはんや孔老は先因(センイン)をしらず、当果(トウカ)をとかず、わづかに一世の忠孝(チュウコウ)をもて、君につかへ家ををさむる術をむねとせり。さらに後世の説なし、すでにこれ断見(ダンケン)の流類(ルルイ)なるべし。

孔子や老子には、まだ人々に応じて救うという説はありません。まして孔子老子は過去の因縁を知らず、未来の果報を説かず、わずかに一生一代の忠義と孝行によって、君主に仕え、家を治めるという心術を第一としているのです。ここには全く後世についての説はありません。まさしくこれは、死後にはすべてが断滅すると考える断見の部類というべきものです。

荘老(ソウロウ)をきらふに、小乗なほしらず、いはんや大乗をやといふは、上古(ジョウコ)の明師(メイシ)なり。三教一致といふは、智円(チエン)、正受(ショウジュ)なり、後代澆季愚闇(コウダイ ギョウキ グアン)の凡夫なり。

荘子老子を嫌う理由に、「小乗の教えでさえも知らないのだから、ましてや大乗の教えならなおさらである。」と言っているのは上古の明眼の師であり、「仏教 儒教 道教の三教は一致する。」と言うのは智円と正受であり、後代末世の愚かな凡夫です。

なんぢなんの勝出(ショウシュツ)あればか、上古の先徳の所説をさみして、みだりに仏法と孔老とひとしかるべしといふ。
なんだちが所見、すべて仏法の通塞
(ツウソク)を論ずるにたらず。負笈(フキュウ)して明師に参学すべし。
智円、正受なんぢら大小両乗すべていまだしらざるなり。四禅をえて四果とおもひしよりもくらし。

私は言おう、
「お前たちは、何の勝れた所があって、上古の先聖の所説を曲げて、妄りに仏法と孔子老子の教えは同じものであると言うのか。
お前たちの意見は、全く仏法の消息として論ずるに足らないものである。更に本箱を背負って、明眼の師に就いて学びなさい。
智円と正受よ、お前たちは仏法の大小乗の教えをまだ知らない。四禅を得て四果を得たと思った者よりも、お前たちは仏法に暗い。」と。

かなしむべし、澆風(ギョウフウ)のあふぐところ、かくのごとくの魔子(マシ)おほかることを。

悲しいことです。末世の風の吹く所では、このような魔物が多いのです。

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