即心是仏(3)

大唐国 大証国師(ダイショウ コクシ) 慧忠和尚(エチュウ オショウ)、僧に問う、「何(イズ)れの方(カタ)よりか来(キタ)る。」
僧曰く、「南方より来る。」
師曰く、「南方に何
(イカ)なる知識か有る。」
僧曰く、「知識 頗
(スコブ)る多し。」
師曰く、「如何
(イカン)が人に示す。」
僧曰く、「彼
(カ)の方の知識、直下(ジキゲ)に学人に即心是仏(ソクシン ゼブツ)と示す。

大唐国の大証国師、南陽慧忠和尚が僧に尋ねました。「どちらから来ましたか。」
僧、「南方から来ました。」
師、「南方にはどのような師がいますか。」
僧、「師は大変多いです。」
師、「どのように人に説いていますか。」
僧、「あちらの師は、すぐ修行者に即心是仏(この心がそのまま仏である)と説きます。

仏は是れ覚の義なり、汝今悉く見聞覚知(ケンモン カクチ)の性(ショウ)を具せり。此の性善く揚眉瞬目(ヨウビ シュンモク)し去来運用す。

そこで言われていることは、仏とは目覚めた人のことである。あなた達は今、一人残らず見たり聞いたり考えたり知ったりする本性を具えている。この本性は、よく日常に於いて眉をあげて笑ったり瞬きをしたりし、また行ったり来たりして自在に働いている。

身中に遍(アマネ)く頭に挃(フル)れば頭知り、脚に挃れば脚知る。故に正遍知(ショウヘンチ)と名づく。此れを離れての外、更に別の仏無し。

この本性は身体の中に行き渡っていて、頭に触れれば頭が知り、脚に触れれば脚が知るのである。そこで、これを正遍知と名付ける。これ以外に決して別の仏は無い。

此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来未だ曾て生滅せず。

この身体は生滅するものであるが、心の本性は永劫の昔から未だ嘗て生滅したことはない。

身の生滅するとは、龍の骨を換うるが如く、蛇の皮を脱し人の故(フル)い宅を出ずるに似たり。

身体が生滅することは、龍が骨を換えるようなものであり、蛇が皮を脱いだり、人が古い家を出て新しい家に移るのに似ている。

即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。南方の所説は大約 是(カク)の如し。

つまり、我々の身体は無常なものであるが、その本性は常住であると。南方で説かれていることは、だいたいこのようなものです。」

師曰く、若し然らば彼の先尼外道と差別(シャベツ)有ること無し。

師が言うには、「もしそのようであれば、あの先尼と言う外道の説と変わらないな。」

即心是仏(2)へ戻る

即心是仏(4)へ進む

ホームへ