即心是仏(6)

いはゆる正伝(ショウデン)しきたれる心といふは、一心一切法(イッシン イッサイホウ)、一切法一心(イッサイホウ イッシン)なり。

いわゆる仏祖が正しく伝えて来た心とは、「心とはすべての存在のことであり、すべての存在は心の姿である。」ということです。

このゆゑに古人(コジン)いはく、「若(モ)し人 心を識得(シキトク)すれば、大地に寸土(スンド)なし。」

このために昔の仏祖は、「もし人が心を知るならば、大地にはわずかな土地も無い。」と説きました。

しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落(ガイテン ボクラク)し、帀地裂破(ソウチ レッパ)す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸(サンズン)をます。

知ることです、心を知る時には、天空は落ち、大地は裂けて無くなるのです。また心を知れば、大地は更に厚さ三寸を増すのです。

古徳(コトク)(イハ)く、「作麽生(ソモサン)か是れ妙浄明心(ミョウジョウ ミョウシン)。山河大地(センガ ダイチ)、日月星辰(ニチガツ ショウシン)。」

また昔の仏祖は、「清浄にして明らかな心とはどういうものか、それは山河大地であり、太陽や月や星である。」とも説いています。

あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取(ドウシュ)するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。

明らかに知られることは、心とは山河大地であり、太陽や月や星であるということです。しかし、この説く所へ進めば不足があり、退けば余るのです。

山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪(ハロウ)なし、風煙(フウエン)なし。日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。

山河大地の心は、山河大地だけであり、決して波は無く、風や煙も無いのです。太陽や月や星の心は、太陽 月 星だけであり、決して霧も霞も無いのです。

生死去来心(ショウジ コライシン)は、生死去来のみなり、さらに迷なし悟なし。牆壁瓦礫心(ショウヘキ ガリャクシン)は、牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。

生死生滅の心は、生死生滅だけであり、決して迷いも悟りも無いのです。壁や瓦礫の心は、壁や瓦礫だけであり、決して泥も水も無いのです。

四大五蘊心(シダイ ゴウンシン)は、四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心(イス ホッスシン)は、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。

万物を構成する地水火風の四大元素や色受想行識の五蘊世界の心は、四大元素や五蘊世界だけであり、決して馬も猿もいないのです。椅子や払子の心は、椅子や払子だけであり、決して竹も木も無いのです。

かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汙(フゼンナ)即心是仏なり。諸仏、不染汙諸仏なり。

このために、即心是仏(この心がそのまま仏である)は汚されることのない即心是仏であり、諸仏は汚されることのない諸仏なのです。

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