道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み

出家功徳(1)

(しゅっけくどく)

龍樹菩薩(リュウジュ ボサツ)(ノタマワ)く。
問うて曰
(イワ)く、「居家戒(キョケカイ)に若(シタガ)へば、天上に生ずることを得(エ)、菩薩(ボサツ)の道(ドウ)を得(エ)、亦(マタ)涅槃(ネハン)を得(ウ)、復(マタ)(ナン)ぞ出家戒を用いんや。」

龍樹菩薩が言うことには、
誰かに、「仏の教えでは、在家の戒に従えば天上界に生まれることも、菩薩の道を得ることも、また涅槃(煩悩の火を吹き消すこと)を得ることも出来るという。それなら、なぜ出家の戒を用いるのか。」と問われれば、

答へて曰く、倶(トモ)に得度(トクド)すと雖(イエド)も、然(シカ)も難易有り。居家は生業種々の事務あり。若(モ)し道法に専心せんと欲(ホッ)せば、家業 則(スナワ)ち廃(スタ)る。若し専ら家業を修すれば、道事則ち廃る。取らず捨てずして、能(ヨ)く応(マサ)に法を行(ギョウ)ずべし、是を名づけて難しと為す。

私は答える。在家戒であれ出家戒であれ、どちらも生死を解脱できるが、そこには難易の違いがある。在家には生業や様々な務めがあり、もし仏道に専心しようとすれば家業が廃れ、もし専ら家業に励めば仏道が疎かになる。そこで両方を取らず捨てずして仏法を実践しなければならない。これが難しいのである。

若し出家なれば、離俗して諸の忿乱(フンラン)を絶し、一向専心に行道(ギョウドウ)せん、易しと為す。復(マタ)次に居家は、憒閙(カイニョウ)にして多事多務なり。結使(ケッシ)の根、衆罪(シュザイ)の府なり。是を甚(ハナハダ)だ難しと為す。

もし出家であれば、世俗を離れて世の煩いを断ち、専心に仏道修行するので容易なの である。また、在家の生活は騒がしく多忙であって、煩悩の起きる根源であり、多くの罪の集まる場所である。これらのことが 在家の仏道をはなはだ困難にしている理由である。

若し出家せば、譬へば人有りて出でて空野無人の処に在りて、而(シカ)も其の心を一にし、無心無慮なるが若し。内想既に除こほり、外事亦去る。偈(ゲ)に説くが如し。

もし出家したならば、例えば 人が外に出て人気のない広い野原に座り、その心を一つにして 何も思い煩うことがないようなものである。心の煩悩は除かれ、世事からも離れ去っている様は、次の詩に説かれている通りである。

「閑(シズカ)に林樹の間に坐して、寂然(ジャクネン)として衆悪を滅す。
恬澹
(テンタン)として一心を得たり、斯(コ)の楽は天の楽に非ず。
人は富貴
(フウキ)の利、名衣(ミョウエ)、好(ヨ)き牀褥(ショウニク)を求む。
斯の楽は安穏に非ず、利を求るに厭足
(エンソク)無し。

「静かに林間に坐して、安らかに自らの諸悪を滅ぼし、
恬淡とした一つの心を得ている、この楽は 天上の楽に勝る。
人は財産や地位、快適な生活を求めるが、
これらの楽しみは安穏ではない。なぜなら、利益を求める心には際限がないからである。

衲衣(ノウエ)にして乞食(コツジキ)を行ず、動止 心常(ツネ)に一なり。
自ら智慧の眼を以て、諸法の実
(ジツ)なることを観知す。
種々の法門の中に、皆以て等しく観入す。
解慧
(ゲエ)の心 寂然として、三界(サンガイ)に能く及ぶもの無し。」
是を以ての故に知りぬ、出家して戒を修し行道するを甚だ易しと為す。

僧は、質素な袈裟を着けて家々に食を乞い求め、日常 心を1つに整えている。
自らの智慧の眼によって、すべての物事が真実であることを明らかに知り、
仏の様々な教えの中に、皆等しく 身も心も投げ入れている。
解脱の智慧の心は安らかで、この世に及ぶものはない。」
これによって理解されることは、出家して戒を修め仏道修行するほうが、在家の場合よりも 甚だ容易ということである。

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