辨道話(15)

いはく、かの外道(ゲドウ)の見(ケン)は、わが身うちにひとつの霊知あり、かの知、すなはち縁にあふところに、よく好悪(コウオ)をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒(ツウヨウ)をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり。

その外道の見解を言えば、我々の身体の中には一つの霊知があり、その霊知は、縁に会えばよく好悪を分別し、是非を分別し、また痛痒を知り、苦楽を知る。これらは皆、その霊知の力である。

しかあるに、かの霊性(レイショウ)は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるるゆゑに、ここに滅すとみゆれども、かしこの生(ショウ)あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見、かくのごとし。

そして、その霊知の本性は、この身が滅する時には、脱け出て他に生まれるために、我々はここで滅するように見えても、他の生があるので、永久に滅せずして常住であると言う。その外道の見解はこのようです。

しかあるを、この見をならうて仏法とせん、瓦礫(ガリャク)をにぎりて金宝(コンポウ)とおもはんよりもなほおろかなり。癡迷(チメイ)のはづべき、たとふるにものなし。大唐国の慧忠国師(エチュウ コクシ)、ふかくいましめたり。

しかしながら、この見解を学んで仏法とするのは、瓦礫を握って黄金と思うよりも、もっと愚かなことです。愚迷の恥ずかしいこと例えようがありません。これを大唐国の慧忠国師は、深く戒めています。

いま心常相滅(シンジョウ ソウメツ)の邪見を計(ケ)して、諸仏の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん、おろかなるにあらずや、もともあはれむべし。ただこれ外道の邪見なりとしれ、みみにふるべからず。

今、心は常住で身相は生滅する、という悪しき考えを計って、諸仏の優れた法に等しいものとし、生死流転の根本原因を起こして、生死流転を離れたと思うことは、愚かではないでしょうか。本当に哀れなことです。もっぱらこれは外道の悪しき考えと知りなさい。耳に触れてはいけません。

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