辨道話(16)

「ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、なんぢが邪見をすくはん。しるべし、仏法には、もとより身心一如(シンジン イチニョ)にして、性相不二(ショウソウ フニ)なりと談ずる、西天東地(サイテン トウチ)おなじくしれるところ、あへてうたがふべからず。

「黙ってはいられないので、今、 更に哀れみを垂れて、あなたの悪しき考えを救いましょう。知ることです、仏法では、元来 身と心は一つのもので、本性と身相とは二つではないと説くことは、インドや中国でも同様に知られていることであり、あえて疑うことではありません。

いはんや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅心常(シンメツ シンジョウ)といはん、正理(ショウリ)にそむかざらんや。

まして常住を説く教えでは、すべてのものが皆 常住であり、身と心とを分けることはありません。また寂滅を説く教えでは、あらゆるものが皆 寂滅であり、本性と身相とを分けることはありません。それなのにどうして、身は滅するが心は常住である、と言うのですか。正しい法理に背いていないでしょうか。

しかのみならず、生死(ショウジ)はすなはち涅槃(ネハン)なりと覚了(カクリョウ)すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。

それだけでなく、生死流転はつまり涅槃(煩悩の滅)であると悟ることです。いまだ生死流転の他に涅槃(煩悩の滅)を説くことはないのです。

いはんや心は身をはなれて常住なりと領解(リョウゲ)するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計(モウケ)すといふとも、この領解知覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。これ、はかなきにあらずや。」

まして、心は身を離れて常住であると理解することが、生死流転を離れた仏の智慧であると妄りに考えても、この理解し知覚する心は、依然として生滅して全く常住ではありません。これでは頼りにならないではありませんか。」

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