行持 下(11)

しかあれば、祖師の大恩を報謝(ホウシャ)せんことは、一日の行持なり。自己の身命(シンミョウ)をかへりみることなかれ。

ですから、祖師 達磨の大恩に報いるということは、今日一日の行持につとめることなのです。この事に自己の身命を顧みてはいけません。

禽獣よりもおろかなる恩愛、をしむですてざることなかれ。たとひ愛惜(アイジャク)すとも、長年(チョウネン)のともなるべからず。

禽獣よりも愚かな恩愛を、惜しんで捨てないでいてはいけません。たとえ愛し惜しんでも、それは長年の友にはならないのです。

あくたのごとくなる家門、たのみてとどまることなかれ。たとひとどまるとも、つゐの幽棲(ユウセイ)にあらず。

ごみ屑のような家門を頼りにして、留まっていてはいけません。たとえ留まっても、そこは終生の住み処ではないのです。

むかし仏祖のかしこかりし、みな七宝千子(シッポウ センシ)をなげすて、玉殿朱楼(ギョクデン シュロウ)をすみやかにすつ。涕唾(テイダ)のごとくみる。糞土(フンド)のごとくみる。

昔の仏祖は優れていました。皆、七種の珍宝や多くの子を投げ捨て、美しい宮殿 楼閣を早々に捨てて出家しました。、それらを涙や唾のように見、腐った土のように見たのです。

これらみな、古来の仏祖の古来の仏祖を報謝しきたれる知恩報恩の儀なり。

これらは皆、古来の仏祖が古来の仏祖に報恩感謝してきた、恩を知り恩に報じるための方法なのです。

病雀(ビョウジャク)なほ恩をわすれず、三府(サンプ)の環(カン)よく報謝あり。窮亀(キュウキ)なほ恩をわすれず、余不(ヨフ)の印よく報謝あり。かなしむべし、人面(ニンメン)ながら畜類よりも愚劣ならんことは。

楊宝(ヨウホウ)に助けられた雀が恩を忘れずに、その子孫を三府(サンプ)に登らせて恩に報いた話があります。また、孔愉(コウユ)が余不亭(ヨフテイ)で助けた亀が四度首を左に向けて去り、その後 孔愉が侯印を作ると、印の亀の首が三度鋳直させても三度とも左を向いて、亀は恩に報いたという話があります。悲しむべきことは、人の顔をしていながら畜類よりも愚劣であることです。

いまの見仏聞法(ケンブツ モンポウ)は、仏祖面々(ブッソ メンメン)の行持よりきたれる慈恩なり。仏祖もし単伝せずば、いかにしてか今日にいたらん。

我々が今、仏に見えて法を聞くことが出来るのは、仏祖一人一人の修行によって、法が伝えられてきたお陰なのです。仏祖がもし、親しく法を伝えてこなければ、どうして今日まで伝わったでしょうか。

一句の恩なほ報謝すべし、一法の恩なほ報謝すべし、いはんや正法眼蔵無上大法の大恩、これを報謝せざらんや。

ですから、仏祖の伝えてくれた一句の恩にも感謝することです。一法の恩にも感謝しなさい。まして正法眼蔵の無上の大法を伝えてくださった大恩に感謝せずにいられましょうか。

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