行持 下(12)

一日に無量恒河沙(ムリョウ ゴウガシャ)の身命(シンミョウ)、すてんことねがふべし。法のためにすてんかばねは、世世(セセ)のわれら、かへりて礼拝供養(ライハイ クヨウ)すべし。諸天龍神、ともに恭敬尊重(クギョウ ソンジュウ)し、守護讃嘆(シュゴ サンタン)するところなり。道理それ必然なるがゆゑに。

法の為に、一日に限りない数の身命を捨てようと願いなさい。法の為に捨てた屍は、後の代々の我々が、かえって礼拝し供養することでしょう。天神たちや龍神たちも、共に敬い尊重して守護し讃嘆するのです。これは必然の道理なのです。

西天竺国(サイテンジクコク)には、髑髏(ドクロ)をうり髑髏をかふ婆羅門(バラモン)の法、ひさしく風聞せり。これ聞法(モンポウ)の人の髑髏形骸(ドクロ ケイガイ)の、功徳(クドク)おほきことを尊重(ソンジュウ)するなり。

西方のインド国には、髑髏を売り髑髏を買う婆羅門の法があると、久しく噂に聞いています。これは法を聞いた人の髑髏や身体は、功徳が大きいと尊重されているのです。

いま道(ドウ)のために身命をすてざれば、聞法の功徳いたらず。身命をかへりみず聞法するがごときは、その聞法成熟(モンポウ ジョウジュク)するなり。この髑髏は尊重すべきなり。

今、道の為に身命を捨てなければ、この聞法の功徳はやって来ないのです。身命を顧みずに聞法したならば、その聞法は成熟するのです。この人の髑髏は尊重すべきものです。

いまわれら道のためにすてざらん髑髏は、他日(タジツ)にさらされて野外にすてらるとも、たれかこれを礼拝(ライハイ)せん、たれかこれを売買(マイマイ)せむ。今日の精魂(ショウコン)かへりてうらむべし。

今我々の、道の為に身命を捨てなかった髑髏は、いつか晒されて野外に捨てられても、誰がこれを礼拝するでしょうか。誰がこの髑髏を売買するでしょうか。その時には、自分の不甲斐ない今日の精魂を振り返って恨むことになるでしょう。

鬼の先骨(センコツ)をうつありき、天の先骨を礼(ライ)せしあり、いたづらに塵土(ジンド)に化(ケ)するときをおもひやれば、いまの愛惜(アイジャク)なし、のちのあはれみあり。

鬼が生前の悪行で鬼の姿になったことを悔いて、死んだ自分の骨を打って責めたことがありました。天人が生前の善行で天に生まれたことに感謝して、死んだ自分の骨を礼拝したことがありました。この身が空しく墓の土になる時のことを思えば、今の愛惜の心は無くなり、後の自分を哀れに思うばかりです。

もよほさるるところは、みむ人のなみだのごとくなるべし。いたづらに塵土に化して、人にいとはれん髑髏をもて、よくさいはひに仏正法(ブツ ショウボウ)を行持すべし。

そこに催されるものは、それを見る人の涙のような思いです。ですから、空しく墓の土になって、人に嫌われる髑髏となるこの身でもって、幸いにも会うことが出来た仏の正法を行持することです。

このゆゑに寒苦をおづることなかれ。寒苦いまだ人をやぶらず、寒苦いまだ道をやぶらず。ただ不修(フシュ)をおづべし。不修それ人をやぶり、道をやぶる。暑熱(ショネツ)をづることなかれ。暑熱いまだ人をやぶらず、暑熱いまだ道をやぶらず、不修よく人をやぶり、道をやぶる。

そのためには、冬の寒苦を恐れてはいけません。寒苦が人を傷つけたことはないし、寒苦が道を傷つけたこともありません。ただ修行しないことだけを恐れなさい。修行しないことが人を傷つけ、道を傷つけるのです。夏の暑さを恐れてはいけません。暑さが人を傷つけたことはないし、暑さが道を傷つけたこともありません。修行しないことが人を傷つけ、道を傷つけるのです。

麦をうけ蕨(ワラビ)をとるは道俗の勝躅(ショウチョク)なり、血をもとめ乳をもとめて鬼畜(キチク)にならはざるべし。ただまさに行持なる一日は、諸仏の行履(アンリ)なり。

釈尊と弟子たちが、食べる物が無くて麦の供養を受けたことや、伯夷(ハクイ)と叔斉(シュクセイ)が義を重んじて、蕨を食べて隠遁生活したことは、出家と俗人の勝れた足跡です。血を求め乳を求めて、鬼や畜生の真似をしてはいけません。ひたすらに行持する一日は、諸仏の日々の行ないなのです。

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