行持 下(32)

しかあれば、すみやかに生死(ショウジ)の愛名(アイミョウ)をすてて、仏祖の行持をねがふべし、貪愛(トンアイ)して禽獣(キンジュウ)にひとしきことなかれ。

ですから、速やかに生死輪廻の因である名利を愛する心を捨てて、仏祖の行いを願い求めなさい。名利を貪り愛して禽獣と同様になってはいけません。

おもからざる吾我(ゴガ)をむさぼり愛するは、禽獣もそのおもひあり、畜生もそのこころあり。名利(ミョウリ)をすつることは、人天(ニンデン)もまれなりとするところ、仏祖いまだすてざるはなし。

取るに足りない自分を貪り愛することは、禽獣でもその思いがあり、畜生でもその心があるのです。名利を捨てる人は人間界や天上界でも希にしかいませんが、仏祖でそれを捨てなかった人はいないのです。

あるがいはく、衆生利益(シュジョウ リヤク)のために、貪名愛利(トンミョウ アイリ)すといふ、おほきなる邪説なり。附仏法(フブッポウ)の外道(ゲドウ)なり、謗正法(ボウ ショウボウ)の魔儻(マトウ)なり。

ところがある人は、人々を利益するために名利を求めるのだと言っています。それは大いに誤った考えです。そういう人は仏法にくっついている外道であり、正法を謗る天魔の仲間です。

なんぢがいふがごとくならば、不貪(フトン)名利の仏祖は利生(リショウ)なきか。わらふべし、わらふべし。又 不貪の利生あり、いかん。又そこばくの利生あることを学せず、利生にあらざるを利生と称する魔類なるべし。

その者の言う通りなら、名利を貪らない仏祖は人々を利益しないのでしょうか。笑うべきことです。又、仏祖が名利を貪らずに人々に利益を与えてきたことを、どう考えるのでしょうか。その者は、仏祖が人々に多くの利益を与えてきたことを学ばずに、人々の利益にならないことを人々の利益と称する魔のたぐいなのです。

なんぢに利益(リヤク)せられん衆生は、堕獄(ダゴク)の種類なるべし。一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙(グモウ)を利生に称することなかれ。

その者に利益された人々は、地獄に堕ちる部類となるでしょう。その一生の暗いことを悲しまなければいけません。ですから、愚かな考えを人々を利益するために称えてはいけません。

しかあれば、師号を恩賜(オンシ)すとも上表辞謝(ジョウヒョウ ジシャ)する、古来の勝躅(ショウチョク)なり、晩学の参究なるべし。まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。

このように、禅師号 大師号などを賜っても、書をしたためて辞退することは、古来からの勝れた行いであり、晩学後進の学ぶべき事です。私は目の当たりこのような我が師を見ましたが、これは、まことの人に会うことが出来たということです。

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